2006/11/01

そうだ、京都へ行こう - 「島原」の由来がわかったぞ -

 「京都の秋の夕暮れは、コートなしでは寒いくらいで、丘の上の下宿屋はいつも震えていました…」(加川良「下宿屋」)。

 そうだ、京都へ行こう。JRの誘い文句にまんまとのせられて先週末、新幹線に乗って京都へ出かけた。紅葉にはまだ少し早かったが、どこも観光客で溢れかえっていた。

 主たる目的は、知人の結婚式へ出席すること。しかし、せっかく来たからには、と寸暇を惜しんで「島原」や「南禅寺」周辺を歩き回った。

 京の「島原」はJR山陰線の丹波口を下車してすぐの所にある。「角屋(すみや)もてなしの文化美術館」を訪ねた。

 恥ずかしい話だが、「島原」という名称は前から聞いてはいたが、なぜ「島原」というのか、「肥前島原」との関係等については全く知らなかった。

 島原は〃花街〃と呼ばれる歌舞音曲のまち。歴史は古く、天正十七年(1589)に豊臣秀吉の許可を得て柳馬場二条に開かれたのが始まりとされている。

 その後、慶長七年(1602)に六条三筋町へ。さらに寛永十八年(1641)になって再び現在地への移転命令が急きょ下されたことで、住民に動揺が走った。その際の〃狼狽〃ぶりが「島原の乱」(1637)に似ていたことから「島原」と名付けられた、という。

 「角屋」は今で言う料亭。太夫や芸妓を置かないことから「揚屋」と呼ばれ、「置屋」とは一線を画している。円山応挙や与謝蕪村らの襖絵や書画が歴史の重みを感じさせる。

 幕末期には西郷隆盛や坂本龍馬らの勤皇の志士のほか、新撰組の近藤勇、芹沢鴨らも宴会を開いていたということで、柱には刀痕も残っている。「島原の角屋の塵はなつかしや元禄の塵享保の塵」(吉井勇)。

 湯豆腐や石川五右衛門の「絶景かな」の台詞で知られる「南禅寺」は臨済宗・南禅寺派の総本山。恐らくあと一週間もすれば、鮮やかな紅葉が楽しめたはずだが、閑寂な佇まいにしばし〃憂き世〃を忘れた。

 南禅寺から北へ約2キロ上ると銀閣寺。琵琶湖疏水沿いの通りにあるのが、著書『善の研究』で知られる西田幾多郎が散策したという「哲学の道」。ちなみに拙宅(上の町)裏の小路は「哲学の小径」。

 残念ながら、披露宴が迫っていたので〃哲学〃できなかったが、思い起こすのは普賢岳噴火当時に「島原の人を何とか採用したい!!」と、わざわざ当地まで足を運んでくれた銀閣寺参道の麺屋さん。

 確か屋号を「おめん」と言った。連日報道される被災者の不安を慮って「関空に支店を出すのでそこで働いてほしい」と女社長自ら出向いて来られたのだ。

 ネットで探してみたが、検索できなかった。次回上洛の折は是非訪問してみたい。