2006/10/11

西川清人さん七回忌 - 〃A級戦犯〃として合祀!? -

 有明町在住の写真家、西川清人さんの七回忌が9日、菩提寺の勝光寺でしめやかに営まれた。母、清子さんの二十五回忌と合わせて行われたもので、故人にゆかりの深い約50人が参列した。

 西川さんが亡くなったのは21世紀を間近に控えた2000年10月21日未明。普賢岳噴火10周年記念の全国巡回展に出品する作品の選別を終えた直後に、こつ然と黄泉の国へと旅立った。享年49歳。

 あれから丸6年。命日となった「10・21」は母校の創立記念日であり、長男の誕生日でもある。いずれにしても筆者にとっては忘じ難い「日」である。

 西川さんがみまかって間もなく、オフィス21代表の堀強さんと連れ立って新町の「セブンストーン」へ、精進落としに出かけた。

 と、熱烈な〃清人ファン〃の一人であった〃岩国のバアちゃん〃が二人の酔態を見ながら感にたえない口調で「わっどんが先、逝けばよかったとに…」とポツリ。《そらーないでしょ、バアちゃん。順番から行けばアタンが先とん》。

 亡くなる数年前、福岡のフジフォトサロンで作品展を開いた折のパーティーの席上で、西川さんが挨拶に立った。「こうして手伝ってくれている君たちは、僕のために生きている。ありがとう」。

 酔ったうえでの〃軽口〃ではあったが、何かしら〃違和感〃を覚えたのも事実だ。その時、西川さんは何を伝えたかったのだろうか。今にして思うに、西川さんは僕達のために死んで行ったのかも知れない。

 グレートダイニング城見で行われた「偲ぶ会」の冒頭、献杯の音頭を取るよう奥様の成子さんから依頼を受けた。何を喋ろうか。溢れるほどの思い出も、極秘のエピソードも沢山あるが、つい「西川さんは〃A級戦犯〃である」と切り出してしまった。

  靖国問題で世論がかまびすしいのを逆手に取っての挨拶だったが、話しているうちに「西川さんは、それぞれの心を侵略するだけ侵略し尽くして、ある日突然に 姿をくらました仙人のような人だった。皆さんの胸の内に〃永久仙伴〃としてしっかり〃合祀〃してください」と何とかこじつけて大役を終えた。

 「あれから40年 - 。冷めた女房に、冷めたご飯。今、家庭の中で暖かいのは便座だけ」と綾小路きみまろは笑わせてくれるが、西川清人逝きて6年。5年半にわたる小泉政権下で世間も大きく様変わりした。

 生前、西川さんは「北朝鮮の拉致問題」の存在をすでに知っていた。幻の焼酎「森伊蔵」を好きなだけ取り寄せる特別なルートも持っていた。

 今頃は、娑婆であたふたと生き急いでいる我々の哀れな姿を、彼岸の淵から眺めながら、例の〃歯っ欠け顔〃で恐らく笑っていることだろう。合掌。