2013/04/11

喪主の挨拶に拍手!?…会場うならせた“倉重節”

「孤掌難鳴」(こしょうなんめい)という韓非子の言葉がある。その意味は「片手では拍手することはできない」から転じて、「何事もひとりでは出来ない」、そして「人はひとりでは生きていけない」と続く。

のっけから話が脱線して恐縮だが、昨日(9日)島原会館で営まれた島原市元市長公室長、倉重貴一さんのご父君(夏男さん・享年94歳)の葬儀(導師は晴雲寺)に参列していて、ふと我が家の玄関先に掲げている色紙のことを思い出していた。

何となれば、葬儀の席では絶対に聞けないと思い込んでいた〝拍手〟の音が、倉重さんの畏友の一人、江東寺ご住職の両の掌(たなごころ)から発せられたからである。

通常であれば〝不謹慎〟の一言で切って捨てられるところであろうが、喪主である倉重さんの謝辞が〝拍手〟に値するような素晴らしい内容であっただけに、会場の至る所から〝賛同〟の笑いが自然と沸き起こったのである。

式には、倉重さんの島原高校当時の同級生である中村法道知事も姿を現した。祭壇には秘書役として仕えた鐘ヶ江元市長の生花。吉岡、横田、古川の歴代市長、県議、市議、市職員など多く恩人&知己らが「倉ちゃんガンバレ!」との思いを胸に参列していた。

倉重さんは筆者より5歳年長の〝兄貴分〟で、駆け出しの頃より公私各般にわたって、色々とご指導を賜った。また、個人的にもよく一緒に呑んだ。

噴火災害の時には、それこそ眠る間も惜しんで対策に奔走しておられた鐘ヶ江、吉岡両氏の〝懐刀〟として、次々と投げかけられる奇問&難問の処理に当たった。

一方で、口うるさい記者クラブの面々との付き合い方も実にスマートで、各社の信頼も厚かった。一言でいうと、見事な〝手綱さばき〟であった。

ある時、酒場の席でこんな〝約束〟を交わしたことがある。曰く「仕事と○○○(アルファベット3文字)は絶対に家庭に持ち込んでならぬ!」と。

もちろん〝冗談〟の類いであったが、災害の先行きがまだよく見通せない中で三男が誕生した折には、「約束ば破ったろ!」と、笑いながら責められた。その三男もはや二十歳を迎え、まさに〝今昔の感〟しきりである。

倉重さんの挨拶は人柄そのままに淡々と進んでいった。佳境(?)を迎えたのは、戦乱の最中での「お見合い即結婚」というご両親のエピソード話。そして、80歳でガンを患って以来の、10余年間にわたる故人の〝健康おたく〟ぶり。

倉重さんは会場を埋めた弔問客に対し、「父に代わる世帯主として、遺された母をこれまで以上に大切にすることを誓います!」と力強く結んだ。

ここでまた江東寺ご住職から〝拍手〟が送られた。そう、人はひとりでは生きてはいけないのだ!!