2013/03/19

偏差値教育の危うさ…多忙を言い訳にするな!

おいおい、一体どうなっているんだ―。そんな〝ボヤキ〟の一つも漏れ出てしまうかのような今朝の荒天ぶりだった。

毎週月曜日は「早朝清掃の日」と勝手に決めているので、いつもより早めに出社して白土湖や音無川周辺のゴミを拾って回ったが、まだその頃は単なる曇り空だった。

それがどうだろう、数時間後には横なぐりの大雨。ただし、それも束の間で、時を置いて窓の外をのぞいてみると、夏場の夕立ち明けのような雰囲気だ。

年の瀬の12月は家中含めて世間全体が忙(せわ)しないが、小なりといえども事業経営に係わっていると、年度末の慌ただしさはまた格別である。

閉口するのは会議の多さ。いささかオーバーなようだが、毎日欠かさずどこかの会合に出かけなければならない。以上のようなわけで、ついつい本欄の執筆も〝おざなり〟となってしまう。

陽明学者で政界の指南役としても知られた安岡正篤さんの言葉を借りれば、「忙とは『心』を『亡』した状態」のこと。つまり、多忙を理由に〝言い訳〟をしている筆者のような輩はサイテーの部類なのだ。

まあどの道、自分が立派な人間だなどとは端から思ってもないが、他人の〝アラ〟だけはよく見える。今朝も掃除をしながら、ブツクサと小言を垂れている卑小な人間(筆者)がいた。

それをここでストレートに書いてしまうと、各方面に迷惑が及んでしまいそうなので止(とど)めておくが、掃除をした後は何となく気持ちがいい。

要するに、周囲の状況がどうであれ、自分が正しいと思っていることを粛々と実践していれば、心は〝カタルシス〟なのである。

ところが、この広い世の中には色んな〝人種〟がいて、自分(の仕事)こそ最高!と思い込んで疑わない鼻もちならない人間が確かに存在している。

小生などは元々物事を斜(しゃ)に眺めるタイプであるから、これが気にくわない。「ハイ、ハイ、貴方様の仰る通りですよ」と表面(おもてづら)だけはニコニコしていても、心の中では舌打ちしていることも度々だ。

時々、ふと考える。年齢を重ねることに一体の意味があるのだろうか?と言うより、様々な事象に対して冷笑的な反応しか段々と示さなくなってきたようにも感じる。

物事の価値判断を何でも数字に置き換えてしまうことの虚しさとでも言おうか…。典型的な事例が入試(合格)のための〝偏差値〟だ。これとて今の世の中では、その後の人生における〝免罪符〟とはとても成り得ない。

先週、どこかの週刊誌が東大入試を取り上げていて、「無理して入る学校ではない」と喝破していた。そう、人生は今朝の天気のように〝晴れの日〟ばかりではないのである。