2007/01/12

眉山は島原の守り神 - 昔の島原は「循環型社会」 -

七面山大祭の日の9日、眉山に登った。午前7時半、護国寺集合。車で登山口の垂木まで移動したのち、標高818.7メートルに挑んだ。

バーゲンで買ったスニーカーに、社用の防寒コート。浮き立つ気分に誘われながら軽快に足を交わしていたが、ものの20分もしないうちにガタがきた。

それでも何とか歯を食いしばって、祭主の岩永泰賢さん(護国寺住職)の後を追った。途中の休憩個所で、オス犬から突如"求愛"を受けるハプニングもあったが、何とか頂上までたどり着くことができた。

所要1時間強。標柱の立つ展望台からは、平成新山の雪景色が一望できた。さらに少し行くと、竜神様を祀った祠があった。

手前の広場から眺めると、島原の街並みが眼下に広がっていた。運動公園から眺めるのとは、また一風違った景観。これぞ我が古里!!訳もなく熱いものがこみ上げてきた。

岩永さんによれば、七面山が開かれたのは、今から250年ほど前の江戸時代中期。すべての建築資材は人力で運ばれたはずだから、とてつもない先人の労苦が偲ばれる。

寛政の地変(1792年)のことは良く知らないが、先の普賢岳噴火災害(91年~96年)の際に、この眉山が火砕流の盾となり市内中心部を守ってくれたのは、紛れもない事実。

そういった意味では、眉山は「島原の守り神様」だ。また、全国名水百選の一つにも選ばれている「島原湧水群」を涵養する「水がめ」であることも忘れてはならない。

10日は、社内全員打ち揃って、護国寺境内で「商売繁盛」「交通安全」などを祈願して、お払いをしてもらった。

「昔は船津地区のご婦人方が『ゴーカキ』と言って、朽ちた枝葉などを背負って帰られていた。そうすることで、雨水が地下に浸透しやすくなり、名水の里を創り出していた」

「眉山から運び込んだ枝葉は船体(木造)の表面を焼いたり、炊き付けとして使われていた。また、川から流れ込んだ水が、海中のプランクトンを養成。まさに、山ノ神の恵みだと言える」

「千本木や折橋の人々は、七面山参拝を終えた漁師の人たちを、手厚くもてなし、一方で海手の人々も山手の人々をとても大切にしていた」

岩永さんの話を聞きながら、昔の島原の「循環型社会」の素晴らしさを想った。本当に良い話を伺った。

毎年11月9日は営林署の呼び掛けで眉山の清掃が行われるとのことだが、いっそのこと市民こぞって参加してはどうだろうか。古里の「守り神様」に感謝の気持ちを込めて。

持ち帰った枝葉で、年明けに「島原大鬼火たき」をすれば、正月の新名物が生まれるかも知れない。