2007/04/19

やさしかった伊藤市長 - 断じて許すまじ暴力事件!! -

 長崎市長の伊藤一長さんが17日夜、凶弾に倒れ、翌18日未明に亡くなった。61歳。何はさておき、ご冥福を祈るばかりだ。

 伊藤市長とは早稲田大学長崎校友会の総会で何度かお会いしたことがある。気さくな人柄で、自身は緑茶を片手に、「遠い所から良く来たね」と、にこやかに酒をついで下さった。

 特に今年は母校創立125周年ということもあって、吉村作治先生を招いてのパーティや、長崎市を起点としたウォーク・ラリーの出発式で、一緒に記念写真におさまるなどしていたから、未だに信じられない気分だ。

 政治家の死も百人百様だが、「暗殺」と言えば、やはりすぐに思い浮かぶのは米ケネディ大統領(第35代、1963年)。真相は未だにヤブの中だが、日米間で初めて衛星中継の画像がつながったのも確かこの事件からだった。

 社会党の委員長だった浅沼稲次郎さんが演説中に刺殺された事件(60年)も忘れられない。犯人は17歳の右翼少年、山口二矢(おとや)だった。

 この事件は、後にニュージャーナリズムの旗手として華々しく文壇デビューを果たした沢木耕太郎が『テロルの決算』(文藝春秋刊)と題して発表。大きな反響を呼んだ。

 「暗殺」ではないが、徳島にいた頃に、現職の大平正芳総理が急逝したニュースも、隣県出身者だったこともあって、はなはだショッキングであった。

 というより、この時、新聞の「号外」というのを初めて見て、それをくいいるように読んでいる自身の姿が、翌朝の朝刊で大きく取り上げられていたからだ。

 浅沼さんの話に戻る。長崎市出身で娘婿に当たるNさんが昭和50年代当時フジテレビ報道部に勤務されており、草野壬二郎さん(当時小浜町長)の紹介状を持って就職相談に訪れたことがある。

 確かその弟さんが伊藤市長とも親しく、長崎市議会の議長もお務めになっていたはずだが、今回は出馬されていないようだ。体調でも悪いのだろうか…。

 90年1月18日には、当時の長崎市長、本島等さんは「天皇の戦争責任発言」を糾弾され、市役所前で右翼団体から襲撃を受けた。この日は、島原振興局管内の施設見学に記者クラブ全員で参加していた。

 夕方、瑞穂町を出ようとした頃、長崎新聞の島原支局長だった林田克己さんのポケベルが鳴った。それが事件発生を知らせる第一報だった。

 その時、いち早く現場に駆け付けスクープ写真をものにしたTさんが、18日付け同紙の一面コラム『水や空』の最後をこう結んでいる-。

 「何がおころうとも、民主主義を守り抜く長崎市民の信念が揺らぐことはない。それが、この凶弾に対する答えだ」。まったく同感である。合掌。