「市民」より「庶民」だ - 合併後初の市会議員選挙は -
誤解を恐れずにではなく、恐れつつ述べるが、「市民」という言葉の響きが嫌いである。
個人的な好みでいけば「市民」より「庶民」である。こっちの方が、あっさりしていて、人間味がありそう。
《そんなこと言っても、国の民は国民で、県の民は県民、そして市の民は市民じゃないか。もっと言うなら、町の民は町民で、村の民は村民だ。戯(たわ)けたことぬかすな!!》
なぁーんて、お叱りを受けてしまいそうだが、「市民」という表現には、何となく「イデオロギー」の香りが付きまとう。
その点「庶民」は気さくでいい。ステテコを穿いたオッサンやアッパッパを着たオバハンの雰囲気だ。男の子の頭髪は坊主で、女の子はおかっぱ頭…とか。
別段、江戸時代の長屋文化や映画『三丁目の夕日』の世界を懐かしんでいるわけではないが、新たに出現した「格差社会」を生き抜いていくには、「庶民の知恵」こそが大切なのではないか。
「庶」という漢字本来の意味を『字通』(白川静)で調べてみると、「同じ厨房で煮炊きをすること」などとある。関連語句として、「庶人」(しょじん)と「庶民」に挟まれて、「庶政」(しょせい)という言葉も見つかった。
そのまま転用する。【多くの政務。[国語、魯語下]卿大夫は、朝(あした)には其の職を考へ、畫(昼)には其の庶政を講じ、夕には其の業を序し、夜には其の家事を庀(をさ)む。】
さて、合併後初の島原市議選の告示日が迫ってきた(20日)。これまでも何度か本欄で取り上げたが、もはや選挙戦は〃終盤〃の様相である。
現時点で予想される顔ぶれは、定数23に対して31名。内訳は現職23名、新人8名。本日飛び込んだ情報では、さらに新人1名が加わった。
定数1を争う市長選や同2の県議選と違って、市議選には独特の「選択の難しさ」がある。率直に言って、できれば落選してほしい人もいれば、あの人も、この人も…と、是非ともガンバって頂きたい方もいる。
いっそのこと「単一記名方式」でなく、複数の「連名方式」とか、この候補者はダメだという「排除方式」が取れないものか、などとバカげたことすら考えてしまう。
毎度のことだが、選挙はとっても大事だ。まかり間違えば、向こう4年の間に市政は間違った方向に進んでしまうかも知れない。慎重が上にも慎重を期して投票する必要がある。
最後に、どうしても申し添えたいことがある。「恒心なきところに恒産なし」だ。そのフィルタを通して候補者の履歴、訴え等を注視すれば、自ずとその〃正体〃は判る。
くどいようだが、綺麗ごとの「市民感覚」なんかより、大切なのはごった煮の「庶民感覚」である。
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