2007/05/20

市長敗れてなお市議へ - 鈴木東民をご存知ですか? -

 岩手県釜石市。全日本ラグビー選手権で7連覇を果たした、新日鐵釜石チームの本拠地があった地方都市として知られているが、かつて「鈴木東民」という名物市長がいたことをご存知だろうか。

 筆者が「東民」市長のことを知ったのは、普賢岳の噴火災害でも精力的に取材・執筆活動を展開していた、ルポライターの鎌田慧さんの著書『反骨 - 鈴木東民の生涯』(講談社)に出合った、のがきっかけだ。

 「東民」の名を一躍有名ならしめたものは、第二次世界大戦後の「読売争議」(45年)の委員長としての采配ぶりだが、その思想・生き様は常人の予想を遥かに超える、まさに〃疾風怒濤〃の生涯だった。

 詳しくは是非とも同書を読んでいただきたいが、もともと「東民」は県議を務めていた裕福な医師を父に持つ、今で言う〃お坊ちゃま君〃だった。

 東北中学を経て、旧制二高に学んだが、幾年かの浪人、留年を経て、25歳で東京大学に入る。人生の舵が大きく切られるのは「大逆事件」(10年)に遭遇してから、だという。

 卒業後は朝日新聞の記者、日本電報通信(電通)の研究員として渡独(26年)。そこでナチス・ヒトラーの「国会議事堂放火事件」(33年)の〃陰謀〃を指弾したことで、ドイツ人の夫人とともに追放処分に。

 帰国後も、左翼系新聞等で〃反ナチ〃の論陣を張っていたが、どういう経緯からか、当時の軍部や警察機構とも関係の深かった読売新聞の外報部次長に就任する。

 「読売争議」以降の経過については書き込む紙幅もないので端折らせてもらうが、共産党入党・脱党を経て、55年には反保守&反組合の〃革新無所属〃候補として釜石市長で初当選。3期連続当選を果たすが、4期目に組合&企業推薦候補に敗れる。

 本のタイトルともなった反骨精神の〃真骨頂〃は、むしろ一敗地にまみれた同市長選の4カ月後に行われた市議選で如実に発揮され、見事トップ当選を果たす。しかしながら、2期目は落選の憂き目に。

 筆者が釜石を訪ねたのは今から10年近く前。すでに高炉の火は消え、人口は最盛期の半分程度に落ち込んでいたが、「東民さん」の人気はいまだに根強く、バラック飲み屋街の女将さんがその人柄を偲んでいたのが印象的だった。

 なお、鎌田さんはこの作品で「新田次郎賞」を受賞。新田さんの息子、藤原正彦さん(『国家の品格』の著者)によれば、新田さんは戦後、朝鮮半島から引き揚げて来る際に、「部下を残して自分だけ先に帰るわけにはいかない」と、最後まで現地に留まっていた、という。

 市議選を前にして、各候補者の出馬の動機(本心)を、改めて問い直したい一心で、駄文をしたためた次第である。ご寛恕を。