2007/06/04

「6・3」から丸16年 - 島原はどう変わったのだろう -

「6・3」である。正確に言うと、西暦1991年(平成3年)6月3日の火砕流災害から、きょう3日で丸16年だ。

 島原はどう変わったのだろうか。私事で言うと、幼稚園児だった長男は大学生となり、ヨチヨチ歩きの次男は高校3年生。中3の三男坊はまだ生まれていなかった。

 カボチャテレビが放送免許を得てサービスを開始したのは同年5月1日。20日後に初めての土石流災害。6月2日は島原市議会議員選挙の投開票日で、夜半からドシャ降りだったことを憶えている。

 「6・3」災害では地元消防団員、警察官、マスコミ、火山学者など合わせて43名が犠牲になった。恐らくみんな〃働き盛り〃だったのだろう。その遺児たちは、我が家の長男や次男らと年齢が近い。

 災害当時、市民生活は混乱の極にあった。600人は下らないと言われた報道各社の貸切で、タクシーの呼び出しもままならなかった。「2世紀ぶりの歴史的な火山災害を映像記録に残そう」と、オートフォーカスの一眼レフカメラが売れに売れた。

 噴石の落下を恐れて、子どもたちはヘルメットをかぶって登校した。怪しげなボランティア団体、噴火活動を鎮めて見せるという宗教家もどきが相次ぎ現れた。義援金に加え、食料や衣服などの救援物資も山のように送られてきた。

 それでも噴火活動は一向に収まる気配は見せず、「10年間は続くだろう」との火山学者の〃予想〃に皆一様にタメ息をついた。

 それぞれに複雑な思いを抱きながらも、人々は先祖伝来のこの地に踏みとどまった。願掛けでヒゲを伸ばした当時の鐘ヶ江管一市長は「朝の来ない夜はない!!」と、市民に向け、涙ながらに奮起を促した。

 市民運動も活発化した。過激な行動に走った直接被災者を包み込むように、「呉服の丸三」社長の高橋三徳さん率いる「島原生き残りの会」が〃官民一体〃の必要性を呼びかけ、数次にわたる国会陳情・請願を挙行。併行して集めた5百数十万人分の署名簿が国を動かした。「1000億円」の災害対策基金創設。

 建設省(国土交通省)はいち早く現地直轄事務所(現雲仙復興事務所)を構え、最新工法で導流堤、砂防ダム等を次々と完成させていった。地域全体を覆っていた火山灰の臭いや皮膜もいつしか消え去った。

 土石流のたびに寸断されていた島原鉄道南目線の軌道は「高架橋」に生まれ変わり、復興の夢を乗せトロッコ列車が開通。が、経営難のため、来年には姿を消す、という。

 16年前、有明海上に浮かんだ「虹」の撮影のため命びろいをした西川清人さんは、無理がたたって7年前に他界。当時から、筆者と西川さん二人共通の友人だった江川紹子さんがきょう3日、復興アリーナで講演する。