普賢噴火よもやま話 - 母と見た「漆黒の闇」の世界 -
「6・8」と言っても、今ではピーンと来る人も少なくなってしまったかも知れないが、きょう6月8日も大火砕流が発生した日だ(平成3年)。
夕刻、小涌園のあたりにいたら、天を衝くような勢いで火砕流独特の褐色雲が迫ってきた。暫くすると雷光がきらめき、雨が降り出した。
当時はまだ布津港と結ぶ船便もなく、深江は最も近くて最も遠い隣町だった。新聞は通常、島鉄に乗せてもらって配達するのだが、陸路は完全にシャットアウト状態。
来る日も来る日も刷り上ったばっかりの新聞を積んで、雲仙越えで南目の販売店まで運んでいた。「6・8」当日は、焼山のソーメン流しを過ぎたあたりで、降灰のためワイパーが動かなくなった。
途中、どう移動して行ったのか良く覚えていないが、広域農道の布津から深江に入った地点(坂道)から上木場方面を見た。至る所から紅蓮の炎が上がり、上空を何機ものヘリコプターが旋回していた。
当時、携帯はまだ高嶺の花で、確か10万円くらいしたが、バッテリーは2時間程度しかもたなかったし、入りも悪かった。
布津に戻って何度も関係先に電話をしたが、「ツー」「ツー」とつながる気配はまったくなし。公衆電話もまったく同じ状態だった。
余談だが、その年の9月15日は、久々に休みを取って諫早まで足を伸ばし、「魚荘」で食事をしていたら、普段は苦虫を噛み潰したような顔をしてテレビに出ている被爆者団体の代表が座敷で「ヒョットコ踊り」をしていた。
一瞬、「島原や深江では住民たちが塗炭の苦しみを味わっているのに…」と複雑な思いもしたが、「色んな事情もあるのだろう。自分たちもこうして食事をしていることだし…」と得心した。
帰路、大三東にさしかかった所で、眉山越に黒雲が伸び上がっていた。大野木場小学校を焼き尽くした「9・15」の大火砕流災害だった。
その年は台風17号、19号の襲撃も受け、まさに〃泣きっ面に蜂〃のような日々が続いた。停電で織り込み機械は使えず、ロウソクの灯りのもと、家族総出で新聞を折った。
母とともに走った「漆黒の闇」の世界を忘れない。北有馬町の国道から天草方面を眺めてみたが、陸地には明かりらしきものが一つもなかった。不気味だった。
しかし、あの頃は若かったせいもあろうが、異常に元気だった。新聞配達を終えて帰ってくるのは大体夜の11時前後。それから近くの「サンパン」に繰り出し、毎日明け方近くまで飲んでいた。
飲み仲間はKTNの槌田禎子、フリーの江川紹子、毎日の神戸金史(現在はRKB毎日放送)ら。拙者以外、みんなそれぞれ立派になった。
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