2007/06/20

内田憲一郎さん逝く - 臨終の間際まで島原を心配 -

 前島原市議の内田憲一郎さんが19日早朝、来年の還暦を待たずに逝去した。享年59歳。まずもってご冥福を祈る。

 何人かいる兄貴分の一人だった。訃報に接し、まず浮かんだのが「第1回島原水まつり」のこと。当時、JCの理事長だった内田さんの呼び掛けで、灯篭作りに汗を流した。

 場所は故人が学んだ島原工業高校グラウンド下の一軒家。拙者の不器用な手つきを、笑いながら見守ってくれていたことを思い出す。

 岳父の故・尾崎大和さんと一緒になって、青少年の健全育成を目指し、ソフトボールの普及に頑張っていた姿も忘れられない。

 災害時には、その活動の様子を日本テレビが追いかけ、全国版の1時間番組で放映された。確かチームの名前は「ラビッツ」、番組名は「スーパーテレビ」ではなかったか。

 松田新也さん(お多福クリーニング社長)や古川芳郎さん(三河屋社長)、青年団&JC後輩の宮本秀利さん(宮本造園社長)らとともに「島原生き残り会」の主要メンバーだった。

 噴火災害下に〃民衆の怒り〃を発火点として呱々の声を上げた同会は、高橋三徳さん(故人・呉服の丸三社長)や森本元成さん(元島原商工会議所会頭)を軸に、青年会議所OBを中心とした〃精鋭〃が顔をそろえた。

 みんな〃手弁当〃だった。仕事を終え、会議所の小、中ホールで幾度も幾度も対策会議を開いた。閉会後は、頭に昇った〃血〃を冷ますため、自ずと会員行きつけの「スナック藍」(高島)に足が向いた。

 ある時、「こんまんまではいかん!!」と衆議一決。翌朝の第一便で上京することになった。拙者も社長の了解を取り付け、まだ明けやらぬ中を、内田さんらと長崎空港に向かった。

 内田さんは若い頃から政治好きで、中曽根派(当時)重鎮の倉成正代議士(故人・元外相)に私淑していた。その関係もあって、永田町でも顔がきいた。

 意外な一面と言ってよいのか、隠れた〃洋楽ファン〃でもあった。ある上京の折、「時間はあるか?」と聞かれたので「はい」と答えたら、六本木のピットインに連れて行ってくれた。そこにも知人がいた。

 大村の国立病院に入院される前日(13日)、電話をいただいた。呂律が回らないので心配していたが、まさかこんなに早く逝ってしまうなんて思ってもみなかった。

 「オイは一回目の選挙は2・3票で落選した。そして今度は23票差やった。何かしら〃因縁〃めいたものを感じる」。拙者は「早く体調を回復して下さい」と言うしかなかった。

 「苦しむこともなく眠るように旅立ちました」と夫人の玉美さん。実弟の英顕さんは「最後まで島原を何とかせんばいかん、て言いよった」と唇を噛み締めた。