2007/06/29

言葉の乱れに憤り!! - 間がなくなった子供達の礼 -

 ラニャーニャ現象とやらで、今年の梅雨期は雨も少なく、アジサイの花もどこか生彩に欠けて見える。

 私事だが、会社の猫の額ほどの畑に花を植えている。マリーゴールド、日々草、ポーチュラカなど。赤や黄、橙、紫など色とりどりの花びらが鮮やかだ。

 何年か前まで、花に目を向ける趣味はまったくなかった。当然、名前も知らなかったし、水をかけてあげようなどという殊勝な気持ちは、露ほども持ち合わせていなかった。

 年をとった証拠だろうか…。最近はこれまで気にも留めなかった事柄に俄然興味が湧いてきたり、若者の振る舞いに無性に腹が立つようになってきた。

 こうした思いは太古の昔からあったようで、エジプトの洞窟にも「どうも近頃の若い連中は…」といった年配者の嘆きが綴られている、という。

 言葉遣いも気になる。テレビ等で漏れ聞く「何気に…」という表現がどうにもシャクにさわる。本来は「何げなく見過ごしていた」などといった用法のはずなのに、昨今は「何気に○○した」などと平気で使われているのだ。

 「全然」も一緒だ。本来であれば、否定語に繋がるべきところを、「全然美味しい」「全然綺麗だ」などと、肯定的な意味の強調語になっている。

 諺、格言の類いについても、まったく逆の意味で使われている例がある。よく言われるのが「情けは人の為ならず」-。

 本来的には「人に情けをかけておけばめぐりめぐって自分の為になる」という意味だが、「情けはその人の為にならない」という〃誤認識〃が堂々とまかり通っているのである。

 拙者は極端な「平和主義者」ではないし、勿論「軍国主義者」でもない。だが、「気をつけ」「礼」がきちんとできない人間は、正直言って嫌いだ。

 昔と言うより、少し前の教育を受けた人間なら、「気をつけ」「礼」の合間に若干の「間」(ま)があることをご存知だろう。

 ところが、最近の子供たちのそれは違う。「気をつけ礼」と〃一括り〃にされているのである。嘘でも誇張でもない、実際にそうなのだ。

 「間」は観阿弥、世阿弥の時代から、とっても大切にされてきた日本的美風の一つである。その意味でいけば「気をつけ礼」は〃間抜け〃そのものだ。

 誰が言ったかもう忘れてしまったが、「米大統領ブッシュはテキサスの油を飲んで大きくなった」と。とすれば、「島原の人間は島原の綺麗な湧水を飲んで大きくなっている」のである。

 数日前、弊社の目の前を流れる音無川に清掃工事が入り、見違えるほどに綺麗になった。気になるのは源流の白土湖。傍目にみる湖面の色は、モノレールから見下ろす東京湾の海面とさして変わりはない。

 こちらの対策には余り「間」を置いてほしくない。