間もなく引っ越します - NTTビル2階から1階へ -
NTTビル2階から1階へ近く引っ越す。現在入居中の2階フロアには、NTTの電話交換設備が入っているため、玄関ドアにはセキュリティ・システムが施されている。
そのため、契約者の皆様をはじめ、用事でお見えになる方々に随分とご不便をかけてきたが、近々オープン・スタイルの事務所に衣替えする予定だ。
ただ、CATV関連の送出機器やインターネットのサーバー類などを置いた機械室と、制作スタッフの部屋はこれまで通りの配置(2階奥)となる。
田舎で育ったから、子どもの頃に引っ越しをした経験がない。転校してくる者も駐在所の子弟くらいでまずいなかった。一つだけ記憶にあるのは、小学2年時のこと。
昭和38年だったと思うが、五島の福江市で大火が発生して、顔にヤケド傷を負ったNという男の子が転校してきた。確か兄と妹がいて、住職が保護司をしている近くのお寺に預けられていた。
Nは小柄だったが、どことなく拗(す)ねたようでもあり、見た感じ、喧嘩が強そうだった。いつしか何かのトラブルで殴り合いになった。
本気で戦ったら、意外と弱かった。ただ、気分は滅入った。後から担任の先生に「他所から来て、友だちもいない子をイジメテどうするの」と叱られた。今度はこっちが泣きたい気分になった。
しかし、喧嘩をしたことで仲良しにもなれた。ただ、境遇からくるものか、Nは地元の人間とは明らかに違っていた。
中学を卒業してからは全くの音信不通。何年か後の同窓会場に現れたNはミュージシャンでもあるまいに、長髪のタンクトップ姿だった。元気にしているのだろうか?
またまた悪い癖で脱線してしまった。引っ越しの話に戻る-。
今でこそ「サカイ」や「アート」などという新手の引っ越し業者が登場しているが、我々が学生の頃の引っ越しは「日通」と相場が決まっていた。
労働市場は貧乏学生。大学の学生課や学徒援護会などの貼り出しを見ては、一日数千円のバイト代欲しさに、よく駅前に並んだ。
後で気付いたことだが、時々〃ご祝儀〃をくれる家もあった。そんな折はいつにも増して張り切った。肉体労働と引き換えにノドを潤したホッピーの味。今でも忘れられない〃青春のほろ苦さ〃だ。
ただ〃弱点〃も抱えていた。もとより不器用なものだから、家具類の組立などを頼まれるのが大の苦手だった。
ある時、友人のO氏と訪ねた世田谷の閑静な住宅地。品の良い老婦人からベッドを作るよう頼まれた。二つ返事で引き受けたものの、どうにもネジが余る。
仕方がないのでポケットに入れて、そのまま帰った。申し訳ないが、その後のてん末は知らない。
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