2007/08/22

向田さん逝って31年 - 事故で蘇える台湾の記憶 -

 「突然出てきてほとんど名人である」 - 。毒舌の主、山本夏彦氏からそう称されたのは向田邦子さん。もうお二方とも故人だ。

 向田さんと言えば、先年亡くなった久世光彦さんと組んで『時間ですよ』や『寺内貫太郎一家』などTBSの人気ドラマを手がけた名脚本家だった。

 晩年は、小説の分野にも進出。昭和55年には『かわうそ』などの短編集で、第83回直木賞を受賞している。

 その向田さんが不慮の航空機事故で死亡したのは、今からちょうど31年前の今日(8月22日)。場所は台湾上空。航空会社名は「遠東航空」(ファー・イースタン)だった。

 奇しくもその機種は、今回那覇空港で炎上事故を起したのと同じ、ボーイング737型機。何かしら〃因縁〃めいたものを感じる。

 何故このようなことを書くのかというと、実は我が家の三男坊(中3)が事故騒ぎのあったその日(20日)、島原JCの皆さんに伴われた「台湾研修旅行」(3泊4日)を終えて、帰国の途にあったからだ。

 向田さんの事故が発生した日は、勤務先の校友会が東京近郊であって、フェリーで移動している最中にニュースを聞いた。

 とにかくビックリした。そして、大好きな作家だっただけに、言い知れぬ衝撃を受けたことを、いまだに覚えている。

 那覇空港の騒ぎは、会社近くの弁当屋さんのテレビで流れているのを見て知った。「エッ!」。一瞬、言葉にならなかったが、まず死者が出ていないことを聞いて安心した。

 さて、その三男が無事に帰って来た。その晩は例のごとく深夜の帰宅だったので会えなかったが、土産の山が雑然とテーブルの上に置かれていた。

 翌朝、寝ぼけ眼で現れた三男が面倒くさそうに語りかけてきた。そして、台湾製のオイルライターと携帯ストラップをくれた。

 包みには「オヤジ」の走り書き。ストラップは福岡空港辺りで求めたものらしく、中州の酔っ払い親爺をモチーフにしたもの。でも、嬉しかった。

 もう久しく台湾には行っていない。30年近く前の台湾はまだまだ〃田舎〃だったが、もう相当な発展を遂げていることだろう。

 台北、高雄の大都市はともかくとして、日本に一番近い「基隆」の港町や、色華やかな植物に囲まれたガランピ公園はどうなっているのだろうか。

 そう言えば、息子の旅程表に台北 - 台南間の「高速鉄道」というのがあったようだが、その列車の送風装置は、我が島原市に本社を置く「東洋機工」が製作しているのだよ。

 一つの出来事をきっかけに浮かび上がる過去の記憶の数々。向田さんや故宮博物館、ガランピの美しい花々…を思い出しながら今朝も水を撒く。