2007/07/29

悲壮感なし南目線廃止 - 読売の花形記者も通学利用 -

 28日付けの長崎新聞『水や空』(コラム)では、島原鉄道南目線廃止問題が取り上げられている。

 書き手は「剛」とあるから、恐らく蓑田さんだろう。さすがに口之津支局長、島原支局長の経験者だけあって文章全体に〃温かみ〃を感じる。

 が、一方で「島鉄は、島原半島(住民)は、一体何をしているんだ!」との〃怒気〃も幾分含まれているような気もする。

 これまでの新聞報道等を見れば、南目線廃止は〃既定路線〃であって、あとは時間の問題のようだ。

 ここに一冊の分厚い本がある。読売新聞社会部の花形記者だった本田靖春さんが遺した自伝的ノンフィクションだ。タイトルは『我、拗ね者として生涯を閉ず』。講談社。全五百八十二頁。二千五百円(税別)。

 なぜ唐突にこの本の話を持ち出したかと言うと、本田さん自身が一時期、南目線の〃通学生〃だったからである。

 年譜によると、本田さんは昭和8年、朝鮮半島京城生まれ。戦後、中学一年の初秋に、南有馬町にある母方の祖母のもとに引き揚げてきた。

 翌年の三学期から、兄とともに島原中学に転入することになり、南目線の利用が始まる。その本の一節に、年配の経験者なら「そうだ!」と膝を打つに違いない、次のような記述(抜粋・要約)がある。

 《湊駅と安中との間に、確か千分の二十四だったと記憶する上り勾配があった。老齢機関車はその中途であえぎ、もがき苦しみ、果てには動かなくなってしまう》

 《こういう場合、蒸気を溜めておいて後戻りをする。その勢いで、すでに通過してきた別なる勾配を、うしろ向きにのぼろうとする寸法である》

 《機関士は一段と時間をかけ、また蒸気を溜める。頃合いを見て、勾配を全速力でかけ下り、その余勢をかって難所を乗り切る。苦心の末に編み出した運転技術であろうが、うまくいくとは限らなかった…》

 本田さんはその後、東京に移転。早稲田(政経新聞学科)に進み、昭和30年に読売新聞入社。社会部記者としての活躍は目覚しく、ニューヨーク特派員も経験。『黄色い血』追放キャンペーンでは、日本の献血制度確立に大いに貢献した。

 昭和46年からはフリーとなり、先輩記者の挫折を描いた『不当逮捕』で昭和59年に講談社ノンフィクション賞を受ける。

 特筆すべきは、晩年の生き様に象徴される、凄まじいまでの〃記者魂〃。両足切断、右眼失明、肝ガン、大腸ガン…数々の病魔と戦いながら、死の直前までペンを離さなかった。享年71歳(平成16年没)。

 本田さんの人生を敢えて路線問題にコジつける必要も何もないが、鉄道喪失の悲痛な叫びが、現地(場)から伝わってこないのはどうしてでしょうね、蓑田さん?

我、拗ね者として生涯を閉ず
本田 靖春
講談社 (2005/02/22)
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