「個性的」が意味するもの - 大切なのはオリジナリティ -
近頃ときどき感じることがある。島原半島はひょっとして、破綻する前の「旧ダイエー」のような状況ではないか、と。
確かに何でもある。海、山、温泉、湧水、食べ物、歴史…。いずれも土地に住む〃当事者〃がその価値に気付いていないだけで、勿体ない話である。
そうした中で成功を収めている一部企業は、いち早くその価値観に気付き、絶えず問題意識を持って、前向き発想で取り組んでいる所だ。
唐突だが、拙者は「個性(的)」という言葉が嫌いである。例えば、女性に対して「君、個性的だね」と言われることは、「ブスだ」という表現と同じだ。
そもそも「大切なのは家庭や教育現場における個性の尊重だ」とか言って子供を甘やかし過ぎた結果が、昨今の目を覆うばかりの親殺し子・殺し事件ではないか。
確かに人間にはそれぞれ「特性(質)」がある。国語が得意な子、算数ができる子、運動神経が発達した子、絵が上手い子…。それこそ〃千差万別〃である。
その違いを見極めるのが親や教師としての「眼力」であり、育てる側の「責任」ではないか。どうも最近の風潮を見ていると、「自由」と「放縦」を履き違えているのではないか、という気がしてならない。
厳密に言うと、「個性」と「特性」の間にさほどの違いはないのかも知れないが、現状の「結果」から遡れば、その差は歴然としている。
つまり、「個性」という言葉の響きが数々の〃悪印象〃を帯びて、拙者の耳には伝わってくるのである。まあ、勝手と言えば勝手な理屈ではあるが…。
そこで最近、拙者が頻繁に持ち出しているのが「オリジナリティ」という言葉。主に社内で使っているのだが、企業や自治体にはこれがなければダメだ。
もはや、似たような製品を大量に生産したり、バスを連ねて団体旅行をするような時代ではない。
自治体だってそうだ。国の「三位一体改革」とやらで、かつてのように各種事業を「交付税」で補填してもらえる〃甘え〃の構造は払拭されつつある。
そうした状況下で求められるのは、一にも二にも「オリジナリティ」だ。もっと端的に言えば、他が真似しようにも真似られないモノを創り出すこと。
拙者が今一番注目しているのは雲仙市の「こぶ高菜」と「エタリの塩辛」。市長はじめ関係者が一丸となって「ブランディング」に力を注いでおられるようだが、その効果はいずれ現れるだろう。
角度を変えて見ると、同市の小浜温泉(自噴)はとてつもない〃潜在力〃を秘めている。まったくの思いつきだが、地元産品を材料に使った「おやき」の製造販売はどうだろうか?
先般、ある旅館経営者に提案したばかりだが、採用してくれるかどうかは知らない。
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