2007/11/29

いま改めて不易流行!! - 立場逆転で取材を受ける -

コミュニティFM放送を始めたことで、日刊工業新聞と、「ザ・ながさき」というタウン情報誌から27日、28日と2日連続で取材を受けた。

普段は取材をさせていただく立場なので、いささか面食らってしまったが、喋った後で、果たして〃真意〃がきちんと伝わったかどうか…。

日刊紙の記者はまだ若く、九州各県のCATV局をシリーズで追いかけている、という。弊社を訪ねたのは、久光製薬などが出資している久留米ケーブルと諫早ケーブルに紹介されたから、との由だった。

時間にして約2時間。自分で言うのも何だが、会社の成り立ちから最近の業界の動向まで、熱を込めて語った。

しかし、それは所謂「宣伝」のためではない。最近とみに感じるのだが、何かしら「前へ!前へ!」と推し進める不思議な高揚感を感じるのだ。

別段「スピリチュアルの世界」に凝っているわけではない。ただ普通に行動しているだけだが、時代が、周囲の方々がこぞって応援してくれているような気がしてならない。

単なる勘違いかもしれないが、思い上がっているつもりは毛頭ない。日々「感謝の気持ち」を忘れないよう、お日様や神社仏閣に手を合わせ、なるべく花や木々などの自然と親しむように心がけている。

振り返ってみると、この3年間はまさに〃紆余曲折〃の連続であった。期間的にもそれは、自分にとっての〃千日修行〃の毎日であったのかも知れない。

精神的に落ち込むことも多かったし、ベルトの穴も、体重も上下に激しく揺れた。運命的な人との出会い、別れもあった。

そうした経験が自分を強くしたとは思わないが、50歳を過ぎたあたりから「島原半島は本当に素晴らしい」と、心の底から思えるようになってきた。

日刊工業の記者は秋田県能代市の生まれだという。同県の地理にはまったく疎いので、同市がどの辺りに位置するのか見当もつかなかったが、さすがに新聞記者で、むのたけじさんの「たいまつ新聞」の話をしたら目を輝かせてきた。

その上で、島原新聞が今年で創刊108年目であることを伝えたら、我が事のように喜んでくれて、「しっかり頑張って下さい!」と励ましてくれた。

清々しい出会いであった。始終横道に逸れ、口数ばかりが多い拙者の話をどうまとめ上げてくるのだろうか、楽しみでもある。

「ザ・なが」の記者は男女2人。今では稀覯本(きこうぼん)となりつつある「長崎じげ辞典」(平成5年刊)を差し出すと、こちらも大喜びしてくれた。

その本では「島原新聞」が題字入りで紹介されており、表紙はメジャーになる前の蛭子能収さんが描いている。何の脈絡もないが、「不易流行」の四文字が浮かんできた。