2008/03/06

肝心な場面で〃肉離れ〃 - 映画作りは地方自治に酷似!? -

スタッフ間のやりとりを聞いていて、映画の世界は完全なる「ヒエラルキー」(階級社会)である、と如実に感じた。同時に、濃密な「コンミューン」(共同体)である、とも。

「脚本」をもとに監督が演出全般を手がけ、その指示のもと、助監督以下のスタッフが一つ作品の完成を目指して邁進する。もちろん、役者の力量も大きく問われる。

ひょっとして、この構図、「地域づくり」に当てはめることができないだろうか?もちろん監督は「首長」であり、作品の善し悪しが「地域の勢い(未来)」を左右する。

そうした観点に立つと、映画作りは殊のほかに面白い。いくら脚本が素晴らしくても、監督(首長)が無能(やる気がない)なら、素材の良さを活かすことができない。

複雑な人間関係が引き金となって、大小のトラブルもひっきりなしに起きるだろう。そうした中で大切なのは、「全体としての和」であり、「関係者全員の目標意識の持続」だ。

みんなが苦労して完成させた作品は、関係者にとっては、何物にも換えがたい宝物だ。が、それが必ずしも興行的に〃当たる〃とは限らない。

この辺りが映画も地方自治も難しいところだ。映画における観客とは、チケットを買って鑑賞してくれるお客様であり、地方自治の場合は、納税者や観光客などがそれに相当する存在だろう。

言い換えるなら、今後の首長の職務には、ある意味「プロデューサー的な役割」も求められる、ということだ。

少し理屈っぽい話になってしまったが、小生は撮影当日、そうしたことを考えながら〃一所懸命〃スコップを動かしていた。

もちろん憧れの吉永小百合さんを前にして、すっかり舞い上がっていたことも事実だが、「至福の時間」→「悲劇」(?)への展開は突然にやってきた。

振り返ってみると、倦(う)むことなく繰り返される「リハーサル」の度ごとに、バカ正直に、真正面から「全力」でぶつかっていた小生の体力は、もうとっくに「限界値」を超えていたのかも知れない。

何度目かの「それでは本番いきます!!」の声に瞬発的に反応した小生の右ふくらはぎ(ヒザ裏)に、一瞬「激痛」が走った。

「やばい!!」と思ったが、もう遅かった。時間にするとほんの1秒くらいの遅れだろうが、今でも決定的な過ちを犯してしまったような気分だ。

それでも、どうにか「OK」は出た。痛めた右脚を庇(かば)うようにして現場を後にしたが、気持ちは深く沈んだままだ。

やっとの思いでたどり着いた病院で訊かれた。「どうしました?」「いやー映画のロケで痛めてしまって…、アハハ」。映画とはまったく異質の「虚飾の世界」に身を置く自分がそこにいた。トホホ…。