2008/04/04

危うく命拾いの顚末 - お尻の辺りに〃異変〃が -

4度目の休憩を小浜温泉で取ることとし、当社の取締役をお願いしている宅島壽雄氏(宅島建設社長)のもとを訪ねた。生憎、留守だった。

代わりに、専務の宅島寿晴氏と面会。小生が「かくかくしかじかで…」などと趣旨を伝えると、笑いながら「大丈夫ね?」と慮ってくださった。

ふだん、コーヒーはブラック党だが、この日は疲れを癒すため、ミルクと砂糖をたっぷりと入れて、ご馳走になった。

一息入れて、さあ出発!!ところが、しばらくしてケツの具合がいささか妙なことに気付いた。痔でないことだけは確かだが、まっすぐ座ると痛いのだ。仕方がないので、左右に振り分けてペダルを漕いだ。

金浜の「眼鏡橋」が見えた。近くに小中時代の同級生が何人もいて、海や川でその連中と良く遊んでいたことを思い出した。

ある時(小3か小4の頃)、皆で泳ぎに行くことになって、全員、波止場から波止場へと渡ることが義務付けられた。誰かが言った―「マーチン(その当時の綽名)泳ぎきっと?」。

当時、小生はまったくの〃金槌〃だった。しかし、「ここで尻込みしたら、男がすたる」とばかりに頭から飛び込んだ。

だが、現実はそう甘くはなかった。いくらもがいても少しも前には進まず、そのうち沈み始めた。一瞬、「このまま死ぬのか。短い一生だったなぁ…」などと観念したくらいだ。

気がついたら、他所のオジさんに助け上げられていた。とても恥ずかしかったが、仲間には「今日は調子ん悪かった…」と言い残してその場を去った。

後から悔し涙がとどめなく溢れ出てきたが、この事をきっかけに〃友情の絆〃がさらに深まったことは想定外の産物だった。

52歳となった今、改めてその波止場付近を眺めてみると、やけに狭いし、随分と浅瀬でもある。「そうか、ここで命を賭けた自分との戦いを演じたのか…」。当時を恥ずかしがりながら一人ごちた。

通いなれた「飛子」のバス停には今風の若者2人が佇んでいた。ここからバスに乗り、約30分をかけて通った口加高。梅雨期には土砂崩れで通行が遮断されることも度々だった。

「板引」「椎木川」を過ぎて「京泊」のバス停に着いた。周辺を見渡すと、それぞれ一家を構えた先輩、後輩。銀行の支店長も医師も歯科医もいる。

旧南串町役場前が坂のてっぺんで、次が「水の浦」。さらにその先の「揚」(あげ)という集落は、なぜだかここだけ言葉が少し違っていた。

左右の尻びた(?)もそろそろ限界に近付いていた。朦朧とする意識の中で、この辺りでもう「音(ね)を〃あげ〃ようか」などとダジャレを飛ばしていたら、目の前には「田の平」方面へ向けて、スキーのジャンプ台のような下り坂が開けていた。

‐つづく‐