2008/05/29

不思議な「挨拶」の語源…気持ちの良い島商の生徒達

‐(株)ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐

厚く雲の垂れ込めた灰色の空を見上げながら、「フー」と溜息をつく。いかん、溜息をつくと、幸せが逃げて行ってしまう。ここは笑顔だ!!

朝の散歩で出会う見知らぬ人々にも、努めて「挨拶」をするよう心がけている。すると、大概の人は笑顔で返してくれる。

気持ちがいいのは島商の生徒たち。クリクリ坊主の悪ガキども(?)が、ペコンと頭を下げて「オハヨーす」。

「挨拶」の重要性に関しては、元島原高校教頭で長崎北高校長や、県立美術館長などを歴任した田中正明先生(前長崎女子大学長)から、懇々とうかがったことがある。

今改めてその「語源」をたどってみると、これが何とも面白い。白川静編『字通』(平凡社)を拾い読みしてみた-。

そもそも「挨」の意味は、1.撃つ、後ろから背を撃つ。2.強く押す、推しのけるように撲(う)つ。3.「よりそう、せまる、順序に次第する。

一方の「拶」は、韓愈(かんゆ)の詩から、迫る意に用いる。手でおす動作のことだ、と。

その二文字が組み合わさって、どうして現在のような意味になるか不思議だが、本来は「大勢がおしあう、または禅家で問答することだ」という。

まさか「挨拶」の話で〃禅問答〃まで出てくるとは驚きだが、たかが「挨拶」、されど「挨拶」である。

我が社の向かいは保育園で、朝夕はちょっとした送迎ラッシュである。正面玄関前に堂々と車を横付けする母親もいれば、駐車場に知らん顔で乗り込んでくる強心臓の持ち主も。

音無川沿いのその道は、白土湖線とアーケード街を結ぶ生活道路なので、比較的車の行き来が多い。したがって、小さな子供の横断には危険も伴う。

時間に追われたお母さん方が「安全確保」だけを気に留めて、そそくさと子供の手を引っ張って渡られるのは結構だが、「挨拶」がないのは寂しい限りだ。

全部が全部ではない。中には「おはようございます」「こんにちは」と頭を下げていかれる親御さんもいる。気持ちがいい。「どうぞご遠慮なさらずに、駐車場を使って下さい」と言いたくなる。これが〃人情〃というものだ。

これから夏場にかけては、花壇回りだけでなく道路に「打ち水」をすることになる。「挨拶」の重要性を歯牙にもかけない厚顔の主は、ホース上にタイヤが乗っかろうとも知らぬ顔。そんな時は、罪のない子供の顔さえ憎らしく映る。

語源の問題はともかくとして、「挨拶」は大事だ。人間関係の潤滑油である。日々〃仏頂面〃で暮らしている人間を見ると、「かわいそうに…」と思う。

いかん、また溜息が出てきた。それでは最後に、学習院方式で「皆様、ゴキゲンヨー」。