2008/08/20

〃総タレント〃の時代…テレビ文化とジャーナリズム

‐(株)ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐

フー、本連載も今日で400回目を迎えた。腹立ち紛れに書きなぐったこともあるので、実際の数はそれより多いのだが…。

ただの雑文に過ぎないのに、『履正不畏』などという随分と大層な表題を付けてしまったと反省はしているが、もう遅い。こけつまろびつ、これからも走り続けるしかないのだ。

(本欄について)様々な受け止め方があるのは、良く承知している。なぜ、敢えてその〃愚行〃を犯すのか。「唾棄すべき」と切り捨てる人物もいる、というのに…。

が、答えはいたって簡単だ。原稿を書くことが「私の仕事」だから。ものの本によれば、最近は「自分の意見」を人前で喋れない人が増加中だとか。そのための「話し方教室」なども多い、とも。

ただ言えることは、「話し言葉」と「書き言葉」では、自ずとその〃性格〃が異なる。一番の違いは「書き言葉」は〃記録〃として残るが、「話し言葉」は一定期間〃記憶〃に留まったにせよ、いずれかは雲散霧消してしまう。

「書き手」「話し手」どちらが偉いか?などといった二者択一の、紋切り型の決め付け方は、この際ふさわしくない。それぞれに「特徴」と言うか、「長所」「短所」を備えている。

その点で言うと、片方で執筆活動を行い、報道番組等でアンカーマンやコメンテーターを務めている人々は、さぞかし才能溢れる人物に違いない。

ある時まで、そう思い込んでいたら、「プロ中のプロ」と自他共に認める、とあるジャーナリストが力を込めてこう語っていたことを、今更ながらに憶い出す→〈テレビに頻繁に出ている物書きは、いずれは自分でつぶれていくか、つぶされてしまう〉

確かに今のテレビ番組を見ていると、肩書き豊かな「マルチ人間」か「お笑いタレント」の独断場だ。政界もその動向につとに敏感なようで、今や出演者の顔ぶれはいずれ劣らぬ〃名優〃揃いである。

こうした〃傾向〃に眉をひそめる向きが出てくるのも当然と言えば当然だが、何せ「選挙」は勝たねばならない。「政権」を担ってこその「政党」である。

一方で、地方自治の在りようも、相次ぐ「劇場型知事」の登場で、にわかに〃活況〃を呈しているようにも見える。ただ、いつまで続くのかは甚だ疑問ではあるが…。

〃したり顔〃で政局の行方を予想する評論家。法の番人なのか、お笑い系タレントなのか分からない弁護士。いつの間にか既存の政治機構に組み込まれてしまったジャーナリスト。

故・大宅壮一氏はテレビ放送の始まりを「一億総白痴化」と喝破したが、今や日本は「総タレント化」の様相なのである。

北野武さん、島田紳助さん、太田光さん…。日本の「今」を動かしているのは、あなた方なのかも知れませんね。