2008/11/27

1円で笑うか泣くか?…「円制度」を創ったのは大隈公

‐(株)ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐

朝、出勤の途中で「1円玉」を拾った。ちょっと前に『千円札は拾うな』という本が話題になったが、金額が金額なので何のためらいもなくポケットに収めた。これって窃盗!?

「1円を笑うものは1円に泣く」。中学時代に数学を教わった渡辺という先生が、いつもそう力説していた。そう言えば、最近は官公庁で「1円入札」というものまであるが、果たして落札者は笑っているのか、泣いているのか…。

と、ここまで書いてきてハタと筆が止まってしまった。ハテ、何を書いたものやら、と思案を巡らせているうちに思いついた。一昨日訪れた、佐賀市の大隈重信記念館のことだ。

以前に訪ねた時は運悪く〃休館〃だったので、今回は二度目の訪問。迷いに迷った前回の場合と違って、今回はカーナビの助けを借りてすんなり着いた。何だか〃一浪〃して合格したようなものだ。

入館料300円を払っていざ内部へ。右手前方には旧宅(生家跡)が復元されていた。木造一部二階建てで、屋根は瓦と茅(かや)のハイブリッド構造。島原の武家屋敷よりは、やや大きめだった。

大隈は天保九年(1838)、禄高三百石の武家に生まれた。幼名・八太郎。「八」は産土神の八幡宮に由来。太郎は「長男」の総称だという。

母・三井子は幼い頃より愛情深く接し、後の総理大臣にして早稲田大学の創設者となる大隈の礎を創り上げた、と。なるほど、いずれの世も「母の力」は偉大である。

家庭環境にも恵まれた大隈は長じるにしたがって、メキメキと頭角を現し始める。慶應元年(1865)、長崎の地に「到遠館」という英学塾を設立。これが後の早稲田の〃前身〃と言われている。

明治2年(1869)、31歳で三枝綾子と結婚。もうこの頃は、押しも押されもせぬ明治政府の重鎮の一人として活躍していた。同年には会計官副知事、大蔵大輔(今でいう次官)という要職を歴任していた。

やっとここまで来て「円」の話にたどり着いた。実は今までつゆ知らなかったが、「円」を基軸とした日本の通貨制度の元をこさえたのは、大蔵卿当時の大隈公だったのである。

現在、その「円」は「ドル」や「ユーロ」と並ぶ国際為替通貨としての地位を磐石なものにしているが、その影に大隈公の存在があったとは…。関係者の末席を汚す者の一人として何とも嬉しい限りだ。

一日置いて昨夜は、尊敬する先輩のお宅に呼ばれてすっかり酩酊してしまったが、帰ったらNHKテレビで「早稲田特集」が組まれていた。

例によってお笑いタレントの太田光が甲高い声で賢しげに喋くっていたが、酔いも手伝って途中で寝てしまっていた。どうにも結びが締まらないが、今日の所はこれで「大団円」に!!