2009/01/01

益々進む「脳」の研究…真理は全て「古典」の世界に

‐(株)ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐

年が明けた!!と言っても、本稿を書いているのはまだまだ師走の最中だが、元旦号に間に合わせるには、その〃つもり〃に成りきらないといけない。

口で言うのは簡単だが、これがなかなかに難しい。年賀状の類いも然り。年が改まってもいないのに、恭しく「明けましておめでとう」とか、「謹賀新年」とか書いても、どうもピンとこない。

一方、配達する側の郵便局(最近では郵政公社か)。「元日に配達して欲しければ、何日前までに投函せよ」などとエラソーに!?民営化されたとはいえ、お役所的発想は全然変わっていないではないか…。

このあたりが若者を中心に「メール」に取って代わられる所以(ゆえん)ではないか。携帯はともかくとして、パソコン上では、きちんと年が明けてから「その時点での気分」が伝えられる。

とは言っても、毛筆や万年筆で書かれた手書きの「賀状」の魅力は捨て難い。「あいつ、相変わらずだなあ」「そうか、そんな事があったのか」…。メールでは決して味わえない〃温もり〃はやはり捨て難い。

要するに、現代は「二極分化」の時代である。極論すれば、便利さによる「スピード」を重要視するか、手作り感覚が醸し出す「余裕」や「余韻」を楽しむか、のいずれかだ。

これはおしなべて、全ての事象に当てはまる。人生だってそうだ。早く一人前になって、金を貯め、成功し、豪勢な暮らしを楽しむか。はたまた、「俺(私)の生き方、各駅停車」とばかりにゆっくりと構え、地位や名誉に拘らない簡素な生活を営むか。

ビジネスに限って言えば、楽天グループの総帥、三木谷浩史氏がその著書『成功のコンセプト』(幻冬舎)の中でも述べているように、何はさておいても「スピード!」こそが最大の生命線だ。

ところが、「成功」の先にあるものは一体何か。多くの凡人は、事そこに至って初めて、もがき苦しむ。「こんなはずではなかった」「もっと大切なものがあったはず」…などと。

他方で「そんなのは成功していない(できない)人間のたわ言に過ぎない」という考え方もあろう。これまた、ごもっとな見解であるから、否定するものではない。あくまでも、個々人の心の持ち様は自由なのだから。

ただ、やや斜(はす)かいな視線で世の中の流れを眺めていると、どうしてもある〃一点〃に辿り着く。一言で言えば、「無常観」のようなものだ。

その考え方はいにしえの昔より、文学上の数々の名作の中で語り尽くされており、今さら言を要するまでもない。『平家物語』然り、『方丈記』然り、『徒然草』然り…なのである。

つまり、科学技術の進展に伴って、人間社会は多くの恩恵を受け、身の回りの生活は見違えるほど便利になった。衛生面でも新薬等の研究が進み、今では「癌」さえも治せない病気ではなくなってきた。

島原新聞が発刊されて2年後の1901年(明治34年)の報知新聞元旦号に、「百年後の夢」という特集があり、その7割方は実現できているそうだ、との記事を2週間ほど前に書かせていただいたが、それはあくまで「科学の世界」の出来事に過ぎない。

人間そのものは、そうそう変われるものではない。せいぜい江戸や明治の人間に比べて、背が少し高くなったくらいだ。ただ、それは外見上の変容にしか過ぎない。精神世界というか、本質面においては、何ら変化はないはずだ。

話は少し〃脱線〃するが(しっ放しだが)、よく目にする、鼻ヒゲを蓄えて頬杖をついた、憂うつそうな夏目漱石の肖像写真。そこから連想するものは、かなり大柄な人物像である。

ところが、ものの本によると、漱石先生は150センチそこそこの小男であった、とか。その現実を知りながら、あのポーズを意識して撮ったとすれば、先生、なかなかの役者である。

閑話休題。昨年あたりから売れ出したものと言えば、「脳」関係の本である。大家の養老孟先生を筆頭に、茂木健一郎、林成之…と次々と若手の研究者が台頭している。

筆者ごときが次の百年後を占うごときは、天に唾するようなものだが、今後はITの技術革新に合わせて「脳の研究」も加速度的に進み、人間の「心」と「身体」の相関関係が炙(あぶ)り出される日も近いかも知れない。

さて、そうなった場合、現実の社会構造はどうなるのだろうか。いにしえの知恵はもう時代遅れとなるのか。否、きっと、古典世界の合理的な素晴らしさを、帰納的に証明することになるだろう。

最後になりましたが、読者の皆様、明けましておめでとうございます。今年もどうぞ宜しくお付き合い下さい。