2009/02/10

伯母の「死」で思う…魂の世界はきっとある!!

私事だが、一昨日、家人の伯母が亡くなった。享年89歳。そのため、この原稿は火葬場の待合室で書いている。

幸いと言うべきか、筆者は余り肉親の死に目に遭ったことがない。お蔭様で、双方の両親とも健在で暮らしているし、また逆縁 とも縁がない。

したがって、「死」というものに対する「心構え」などまるでない。葬儀の場ではひたすら悲しみ、滂沱(ぼうだ)の涙を流すだけだ。

ただでさえ小柄な伯母だったが、入院をしてからは、益々小さくなっていた。棺に納める際の布団が何と軽かったことか…。

期せずして、遺影は筆者が撮影したスナップの中から選ばれた。微笑を浮かべた柔らかな表情が伯母のやさしかった〃人柄〃を余す所なく表している。我ながら〃傑作〃だと思う。

新しくなった火葬場には初めて来たが、近代的な造りで感心している。確か、新島原市合併特例債事業の第1号の建物ではなかったか。

計画を最初に耳にした時は、「エッ?」と言うか、何かしら〃違和感〃を感じたものだが、今こうやって実際に〃現場〃に立ってみると、その〃狙い〃のようなものが見えてくる。

人間(万物)にとって「死」は不可避の現実である。また、「葬儀」は何物にも勝る荘厳な儀式である。合併によって生まれる、新たな自治体の記念すべき初事業に敢えて「火葬場」を選ぶとは、なかなかの慧眼(けいがん)ではないか。

「死」は「終わり」ではない。「死」は「原点」である。一つの訃報のもとに多くの親類縁者や関係者が集い、それぞれの「来し方」を振り返り、そして「未来」を探る。

人生の「儚さ」を改めて噛み締める絶好の機会でもある。「涙」の有難さを感じるのもこの時だ。筆者は一時期、悲しいのに涙が出ないつらい経験をしたことがあるので、余計にその思いが強い。

棺の向こうの「遺影」が語りかける。「あんた、ちょっと太り過ぎよ。真剣にダイエットせんば」 - 。根が泣き虫なので、涙がとどめなく溢れ出てくる。實枝子おばちゃんアリガトウ!!

荼毘(だび)に要する時間は約2時間。放送で「収骨式」の案内が流れた。小さい…。促されるままに骨をつまんで骨壷へ。あっけない思いと同時に、気持ちの整理もついた。

人は死んだらどこに行くのか?黄泉(よみ)の国とは一体?三途の川はどのように渡るのだろうか?極楽浄土や地獄は本当に存在するのか?

お釈迦様でもあるまいに、分かるはずもないが、「死」はしばし人を哲人にする。ただ、これだけは言える。他人の心が手にとって読めないように、きっと肉体とは違う精神の世界があるはず。

伯母の魂は今頃どの辺りを進んでいるのだろうか。どうそ、迷うことなく「お浄土」に辿り着けますように。合掌。