2009/06/13

昔は卓球名人だった!?…荻村伊智朗さんの思い出

‐株式会社ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐

私事で恐縮だが、これでも中学時代は卓球の名人(?)であった。西部中体連大会には、1年次からただ一人レギュラーで出場。2年生の時には、優勝常連校の南串山中のキャプテン(3年生)を破った。《世界が狭いなぁー》

当時の中学生チームでは、西有家中が抜群に強かった。郡の大会に出場した際、ペンホルダーの攻撃性を駆使した見事なフットワークぶりに、ほとほと感心したものだ。

残念ながら何回戦かで敗れて〃直接対決〃の夢は叶わなかったが、その時は「上には上がいるなー」と実感した次第。

元々は剣道部に入る予定でいた。ところが、初練習で先輩にメッタ打ちにされたことがトラウマとなってすぐに方向転換。有段者の叔父からは「こん軟弱者が」とこき下ろされた。

しかし、人生とは面白いもので、後に巡り会って親しくなったのは卓球よりも剣道関係者の方が圧倒的に多い。大学時代の親友の一人、O君は卒業するまでガクランで過ごした考古学好きの剣士であった。

数年前から突如として版画刷りの賀状をいただいているが、現在は神奈川県の県立高校で世界史を教えている、という。充実した人生ぶりがうかがえて、朋としても嬉しい。

ところで、なぜ唐突に「卓球」の話なんかを持ち出したのかについて、少し触れる。きっかけは新聞のスポーツ欄。日本を代表するプレーヤーの福原愛&石川佳純組が出場している「荻村杯」のことだ。

卓球界以外では荻村伊智朗さんの名前は余り知られてはいないだろうが、筆者がラケットを握り始めた当時は、まさに「輝く星」だった方だ。

世界選手権優勝12回という輝かしい戦績ばかりに目が向いてしまうが、そればかりでない。中国の門戸を開いた意味でも「ミスター卓球」という呼称が相応しい人物であった。

そんな大それたお方に、ナント筆者は直接指導を受けていたのだ。教養課程の「体育」の授業だったから、別段自慢する話でも何でもないのだが、ご本人を前にして随分と緊張したことを覚えている。

印象を言うなら、物腰の柔らかな、とてもやさしい感じの先生だった。

「卓球」を終えた後は「合気道」を選択した。こちらは一転、雰囲気が異なった。先のO君などが日々練習に励んでいる体育会系の剣道部や柔道部などが入っている「武道館」が教室だったが、それはそれとして大変に面白かった!!

授業では受身や短剣捌きなどを繰り返し教えてもらった。中に可愛らしい女子部員(指導助手)がいて「組み手」をするのが楽しみであった。

ある時、腕を挟まれる態勢に持ち込まれた際に、「痛…。けど気持ちいい」と叫んだ途端、アッという間に投げ飛ばされていた。ほとほと「武道」には向いていない人生のようで…。