醜聞そろそろ登場…人は忘れる動物である
‐株式会社ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐
これまでは鳴りを潜めていた、先の総選挙での当選者、並びに後援会関係者の行状を糾弾するかのような記事がそろそろ出始めてきた。だから、週刊誌は面白い。止められない。
やはりこうした方面での代表格は「文春」や「新潮」などの出版社系だろう。新聞広告の派手な見出しに誘われて、ついつい買わされてしまう。実は一昨日もそうだった。朝起きるなりにコンビニに駆け付け、中身を吟味することもなくレジに持ち込んだ。
「フムフム実態はそうだったのか」「ヘー、清楚な娘さんに見えたけど」 - 。受ける印象は様々。ところで最近、横峯さくらの父ちゃん(民主党参議院議員)はどうしているのだろう?
この父ちゃんの話を以前、熊本のJALホテルで聴いたことがある。確かCATV連盟九州支部主催のトップセミナーでの記念講演だった。
内容は空疎にして、面白みなし。果ては何を血迷ったか、NHKから派遣された司会者にまで食ってかかる始末。後に、まさかあんな人物が国会議員になろうとは…と天を仰いだが、当選後の破天荒ぶりは〃案の定〃だった。
ただ、その後は誌面に登場する場面もめっきり少なくなってきているので、恐らく真面目に議員活動に勤しんでおられることだろう。いや、国民の大事な血税の中から歳費が購われていることを想えば、是非そう願いたいものだ。
誤解を恐れずに言えば、マスメディアの記者さんは往々にして「迷惑な過ち」を犯すことがある。もちろん、地元にとっての話だ。それは選挙報道に限っての話ではない。
改めて振り返ってみると、災害の時がそうだった。大体において、スネにキズを持つ輩(やから)は、比較的頭が良くて口が巧い。逆に言うと、現状の「アラ探し」に躍起になっている取材者の立場からすると、格好の対象となりやすい。
かくして、理路整然と構築された、「批判」や「非難」の記事が大きく掲載される。本人は益々得意満面となって、そのことを殊更に吹聴する。
だが、時が経つにつれ、そうした「指摘」は脆くも崩れ去る。砂で出来た造形のようなものだ。何故なら、その考え方(生きる姿勢)の中に地域社会にとけ込もうという「繋ぎの要素」が欠落しているからである。
そのうち、頼りにしていた記者連中は、より新しいニュースを求めて他所へと去って行く。後に残されるのは「金科玉条」とは程遠い、黄ばんだ紙片のみである。
人は忘れる動物である。今回の歴史的な「政権交代」も、その舞台裏で繰り広げられた数々の愛憎劇も、いずれは忘却の彼方へと消えてゆく。
この機会に、いま一度「不易流行」の意味を問い直してみなければ…。
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