平尾圭太さん逝く…まさに「巨星墜つ」の悲しみ
‐株式会社ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐
〃訃報〃を耳にしたのは豊後高田だった。平尾勇先生(俳号・圭太)が30日、亡くなった。享年87歳(数え年)。筆者の家族の話によれば、その日の朝も〃いつものように〃郵便受けに俳句の原稿が投函されていた、という。
本当に大好きな先生だった。現代日本を代表するような俳句の大家でありながら、少しも偉ぶったところがなく、いつも恥ずかしげに微笑んでおられた。1日の葬儀で弔辞を読まれた中川萩坊子さんが仰っていたように、まさに「巨星墜つ」の感しきりである。
先にみまかれたみさお夫人ともども、筆者が島原に移り住んだ頃から随分と可愛がっていただいた。ご自宅の三勇堂菓子舗をお訪ねすると、愚息(長男)の名前を良く覚えてもらっていて、「多聞ちゃんはもう随分と大きくなられたでしょう?」などとお声を掛けて下さったものだ。
先生は優れた俳人であると同時に、会計学を修めた「公認会計士」(長崎大学名誉教授)でもあった。その資格は母校・島原中学(→島原高校)の教壇に立ちながら〃独学〃で取得されたというから、並みの頭脳・精神力の持ち主ではなかった。
弊社の生放送番組『ターニングポイント』にゲストとしてお招きしたのは昨年6月。その中で初めて聞く話も多く伺えた。何よりびっくりしたのは、自身も学ばれた「長崎大学」の校歌も作詞されている、というエピソード。
また、海軍経理学校時代の同級生に、『秋霜烈日』の著者としても知られる元検事総長の伊藤栄樹さんらがいたことも驚きだったし、終戦後の一時期「東芝」に勤務されていたことも初めて知った。
島原会館で営まれた通夜・葬儀には、先生のお人柄を偲んで、会場に収まりきれないほど多くの人々が参列。ススキを背景に撮られた遺影がさらに悲しみを倍加させ、教え子を代表して〃弔句〃を読み上げる原フミ子さんが時おり絶句する姿が印象的だった。
筆者も斎場の後方に座らせていただいたのだが、ふと「こんな時、先生ならどんな句を詠まれるのだろうか…」との考えが頭をよぎった。不謹慎だろうか?いや、そうではないはずだ!
およそ島原で暮らしたことのある人物なら、多くの人々が集う会場で、先生の「即興句」に触れたことがない者などまずあるまい。それほどまでに「圭太俳句」は島原の土壌深く根付いた〃作風〃だった。
簡潔にして明瞭。決して奇を衒わず、一瞬にしてその場の雰囲気を切り取る確かな〃描写力〃は余人の及ぶものではない。島原にとって本当に惜しい〃人財〃を失くしたことを心から悔やむ。合掌。
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4日の『ターニングポイント』は急きょ予定を切り替え、平尾勇先生の追悼番組として、収録分を再放送します。
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