2009/12/17

家宝に目が眩んで…「過ちをる」悪いクセ

‐株式会社ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐

「過ちては改むるに憚ること勿れ」(論語・学而)。昨報の本欄で、現在の中国の国家主席を「温家宝」とする〃過ち〃を犯してしまっていた。正しくは「胡錦濤」。深くお詫びして、訂正いたします。

いやはや、何をネブリカブッテいたのか、恥ずかしい思いでいっぱいだ。馬鹿の後知恵で分析すれば、「家宝」という〃落とし所〃に思わず目が眩んで、拙速してしまったようだ。スミマセンでした。

さて、「師走」の月もはや3週目の後半を迎え、余すところ後2週間。平成21年の今年は、どんな1年だったのだろうか…。

少し振り返ってみようと思って本欄のバックナンバーを調べたら、元旦付が第464号だった。したがって、本日で187作目ということになる。

この間、数々の過ちを犯して、読者の皆様にお叱りを受けることも度々。いっそのこと止めてしまおうかと思ったことも、また度々だったが、「毎日、楽しみにしてるからね!」と、励ましの声を掛けて下さる方もおられる。

先日は、お目にかかったこともない老婦人から人伝に〃サイン〃まで頼まれて、ついその気になってしまった。まさに「ブタもおだてりゃ木に登る」の世界だ。

よく「文は人なり」と言われる。まさしく言い得て妙な表現だと思うが、この場合、「逆もまた真なり」という法則も当てはまらないだろうか…。

つまり、「人」二アリー・イコール「文」ではないか、と思う次第である。ここで見落としてならないのは読み手の側の「好悪」の問題。

要するに、「坊主憎けりゃ、袈裟(けさ)まで憎い」という、あの感覚のことだ。そうした先入観で文章を読めば、たとえ優れた内容であっても「何を言うか、この馬鹿野郎が!」となるのがオチなのである。

筆者を含め大方のモノ書きにとって、この壁は果てしなく高く、且つ堅固だ。容易に突き崩すことなど困難の極みである、と言ってもよい。

さらに論を進めれば、この壁を乗り越えてこそはじめて、その筆致が「芸術の世界」まで昇華した、と言えるのではないか。まあ、端からそんな才能など持ち合わせていない身にとっては「そんなの関係ない!」話であるが…。

筆者のように、自らの犯した「過ち」を自虐ネタとして利活用するのは、関西のお笑い芸人がよく使う手でもあるが、はっきり言って、それくらいの〃厚顔さ〃がなければ、恥ずかしくて文章など書けるものではない。

ただ、時に深く反省することも必要。過ちを過ちとして素直に認め、原点に立ち返って出直しを誓うこと。それでもなお人間は過ちを犯すもの…。

こうした言い訳のことを論語の世界では「過ちを文(かざ)る」(子張)というのだそうだ。反省!!