2010/02/12

牟田隊長亡くなる…「現場感覚」を大事にした人

‐株式会社ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐

「矢継ぎ早…」と言っては何だが、このところ亡くなる方の数が殊更に多いような気がする。寒暖の差が激しいことも一因であろうが、「よもや?」という訃報に接した時、尚更に「世の無常」を感じざるを得ないのである。

雲仙・普賢岳の噴火災害の折に、島原警察署の災害警備隊長として活躍した牟田好夫さんもその一人。享年64歳。まだまだ早すぎるお迎えである。

牟田さんは島原市の出身で、類いまれなる行動力と危機察知能力で「古里警備」に東奔西走の日々を送った。土石流、火砕流が否応なく押し寄せる不穏な時局の中で、その動きは際立っていた。

勢いあまって、一部報道に「行き過ぎ」の弾劾記事を掲載される一幕もあったが、その時は地元住民が一丸となって、その身を守った。かく言う筆者もその一人で、生まれて初めて「論陣」なるものを張った。

嬉しいことに、同調してくれる社も多かった。今やすっかり「お茶の間の顔」として定着した江川紹子さんも理路整然たる筆致で、本紙宛に緊急レポートを寄せてくれた。

今にして思うに、牟田隊長は「現場感覚」をとても大切にする人だった。その当時で言えば、常に被災当事者の身になって「事の正否」を判断していたのではなかろうか。

「当事者」に近いと言えば、被災した人々に直接会って話を聞くことができる報道関係者も同じような存在である。筆者の知る限りでも、取材活動で牟田隊長のお世話になった記者連中は数多くいる。

今となっては、一時期世間を騒がせた「牟田隊長事件」も過ぎ去った遠い思い出となってしまったが、土石流荒れ狂う水無川の堰堤に立って「陣頭指揮」を執る「あの勇姿」だけは忘れられない。

牟田さんは、警察退職後の第二の人生は西部ガスで送っていた。幾度か長崎の勤務先に訪ねていったこともあるが、往年の精気が感じられないことを心配していた。

最後に言葉を交わしたのは電話でのこと。昨年10月に島原城で行われた「新・秋の七草粥」のイベントに、同社にも協力してもうおうと、その橋渡し役を頼んでいた。

もちろん「二つ返事」で担当者に紹介してくれたおかげで、同イベントは大盛況のうちに、無事幕を閉じることができた。

一方で、牟田さんは現役時代から、体調の維持管理に余念のない人であった。一緒に酒席を囲んでも決して深酒などせず、もちろん煙草も吸わない。また、そのスマートな体型を維持するためにスポーツ・ジムにも通っていたほどだ。

そんな牟田さんがなぜ…?島商の後輩でもあった西川清人さんが逝った時、「清人は早すぎた」と眉を曇らせていたが、牟田さんあなたも…。合掌。〔葬儀は12日、長崎市大橋町のメモリード会館で営まれた〕