島原には島原の良さ!…堀端の母子の姿で思い出す
‐株式会社ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐
昨日の昼過ぎ、島原城の堀端で、入学式帰りと思われる一組の母子の姿を見かけた。母親は柔らかな色合いのスーツをまとい、背中にランドセルを背負った男児の表情はいかにも誇らしげであった。
こうした光景は特段島原に限ったものではなかろうが、城下町特有の風情はそうどこにでもあるものでもなかろう。「富士には月見草が良く似合う」(富嶽百景)と書いたのは太宰治だが、「島原には学校が良く似合う」と、個人的にはそう思う。
24年前、島原で暮らすことを決意した。今でもその時のことを鮮明に覚えている。それ以前も、またそれ以降も、ハプニング続きの我が人生であるが、たまたま車で堀端を走っていた折に、バッテリーがあがってしまったのだ。
もとより車を修理する術など知らず、周囲に知り合いも居ないその中で、親切にもお声を掛けていただいたのは島鉄タクシーの運転手さんだった。
「どうしました?」『いやー、急に動かなくなってしまって』「バッテリー切れですね」…。そんなやり取りの後で、その運転手さんは実に手際よく〃応急措置〃を施して下さった。
今でも忘れることのできない〃一コマ〃なのだが、その時見かけた女子高生の通学姿がお城の景観と見事になじんでいて、すっかり島原という〃土地柄〃に惚れ込んでしまった。
結婚後は、地元記者という仕事柄、県の島原振興局にもちょくちょくお邪魔していた。その際に、時の局長さんから伺った話も、これまた忘れられない!
「県職員の間では、島原は一番人気なんですよ。何せ人柄がいい。玄関先を掃除する場合、お隣さんの分まで黙って履いてくれるような、そんな気質&風土なんですよ」。
一方で「マスコミ人気」も高かった。それは、「観光地ランキング」などといった代物ではなく、定年間際の、経験豊かな記者連中も「最後の勤務地」として島原を希望する者が多かった、というわけだ。
かくして、我が第二の人生も、この地におけるゆったりとした時間に沿って静かに流れていくはずだったのだが、2世紀ぶりの噴火災害が、その約束された「シナリオ」を根底から覆してしまった。
その〃余波〃とも言うべきなのか知らないが、災害前は島原に居を構えていた県職の人々も、多くは島原半島外から遠距離通勤をするようになったし、災害そのものが人心を歪めた面も否めない。
しかし、いつの世でも「島原は島原である」。かつて〃盲目の市議〃として活躍した宮崎東介さん(上の町)がしみじみと語っていた言葉を思い出す―「島原にゃ、島原ん良さのあっとたない!」。
桜吹雪の下で、満面の笑みを湛えた母子の姿に、久しく忘れかけていたものが蘇ってきた。
0 Comments:
コメントを投稿
<< Home