2010/07/06

池田武邦さんの講演②…日本初の「超高層」に挑む

先進国と言うのは、「文明」の価値観で動いている。しかし、それを支えている「欲望」というものが遮二無二突き進んでいけば、待ち受けているのは「破滅」でしかない。

戦時中、私の同期生(海軍兵学校72期)は625人いた。そのうち生き残ったのは290人。つまり335人は亡くなってしまったわけだ。

私は戦艦「矢矧」(やはぎ)に乗っていたが、都合3回、撃沈された経験を持っている(※この辺りの事情は文藝春秋6月号の梯久美子さんのレポートに詳しい)。

戦後は、祖国日本の復興のために、建設業界に入った。最初に手がけた大きな仕事は、丸の内(東京駅前)の日本興業銀行の空調工事。地上8階、地下2階。日本初のエアコン付きビルを建設する計画だった。

その時、私は日本の建設現場の「後進性」(時代遅れぶり)を、イヤと言うほど味わった。米国では、戦争の最前線でもブルドーザーを駆使していたというのに、日本は相も変わらずの手掘り作業。雨が降れば休まないといけない。

「いかん、このままでは復興は遅れてしまう…。もっと近代化を図らねば!」との思いから、造船所や自動車工場の生産工程を参考に、「プレハブ工法」を思い立った。

最初のうちは、ゼネコン(大手建設会社)から睨まれた。しかし、頑としてその圧力をはねのけ、工事を進めていった。

当時、不動産業界では、三菱地所が圧倒的な優位性を誇っていた。その状況を打破しようと立ち上がったのが、三井不動産の江戸英雄さんだった。

私は江戸さんの依頼を受け、母校・東大の地震研究所の武藤教授から理論的な指導をいただきながら、日本で初めての超高層ビルの建設に挑むことにした。それが霞が関ビルだ。

「超高層」という発想は以前からあったものだったが、いかんせん前述したように、日本の建設現場は遅れに遅れていた。

不可能を可能にしたのは、それまでの「計算尺」に代わる「コンピュータ」の出現であった。私は江戸さんに「コンピュータを使えば出来ます」と宣言した。

1960年着工。約8年がかりで完成したのだが、最初に頭を痛めたのが「柔構造」という問題。

地上高200メートルにも達するビル最上階部分では、窓枠(カーテンウォール)から雨が漏れないようにするのが一苦労だった。空調に係わる煙突の問題でも随分と悩まされた。

そうした苦心惨憺の末に霞が関ビルは出来上がったわけだが、設計の責任者としては、その安全性&快適性を実証する意味でも、自らそこに居住することも大切だと考えた。

新宿の三井ビル50階に「日本設計」の本社を構えたのも、そのような理由からだった。

-つづく-