2010/07/07

池田武邦さんの講演③…人間も自然界の一部である

事実、新宿三井ビル50階の「日本設計」のオフィス環境は、空調も良く効いているし、申し分ないほど快適であった。

ところが、都心に雪が舞ったある日のこと。ビルから戸外に出ようとしたその瞬間、冷たい雪片が頬を直撃したことで、私の価値観は激変した。得も言えないほどの気持ちの良さ!

確かに、ビル内は快適この上なかった。しかし、何かが違う…。私はこの時、人間が自然界の一部であることを、身をもって実感したと言える。知らず知らずのうちに、精神的なストレスが溜まっていたのかも知れない…。

近代哲学の先駆者として知られるデカルトは「吾思う、ゆえに我あり」と唱えた。当時(1600年代)、ヨーロッパでは「魔女狩り」が横行していた。

要約して言うなら、デカルト的な発想は、常に人間を中心に据えている。「人権主義」と言い換えることもできる。

これに対して、日本的なモノの考え方は「人間も自然の一部である」というのが大原則。分かりやすく言えば、極悪人でも斬首の後は「仏様」だし、「一寸の虫にも五分の魂」とも言うでしょう。

そもそも「後進国」などという表現自体、文明的な価値基準でしかない。私は今、西彼町に庵(いおり)を構えて暮らしているが、有体に言えば、私の自宅は、茅葺きの「掘っ立て小屋」。確認申請を出しても、まず通らないだろう。

しかし、その伝でいけば、世界最古の木造建築の最高傑作と言われている奈良・法隆寺だって、今の建築基準法からすれば、間違いなく違法の部類だ。

残念ながら、現代の我々の価値観は、余りにも文明的な側面(価値判断)に捉われ過ぎている、としか言いようがない。

例えば、江戸時代の評価。一般的には「鎖国=暗黒」といった誤まった考え方が、いまだに一部にはびこっているようだが、そんなことはない。江戸時代こそ典型的な「サスティナブル」(持続可能な社会)だったのである。

大人用の一反の着物があれば、古びてきたら「子供用」→「オムツ・雑巾」と形を変え、最後は「ボロ」として草鞋(わらじ)の強化材として使われていた。つまり、徹底した「無駄なし社会」だったのだ。

本来、建築というのは人間が作るものだが、同時に、建築そのものが人間を創っているということも忘れないでいただきたい。

私は「文明」そのものを否定しているつもりはないし、それはそれでとても大事である。しかし、それのみに走っていけない、ということだ。

「文化」との関係で言えば、文化が「求心力」としての機能を果たしているとすれば、文明のそれは他ならぬ「遠心力」である。そのバランスこそが大切なのである。

-つづく-