2010/07/29

宮崎さんの〃遺訓〃…仲良くすることが全ての基本

地元の観光振興に大きな功績を遺す一方で、ライオンズクラブの重鎮として活躍した宮崎旅館の元社長、宮崎幸康さんがみまかられて早一週間。「死」は避けられぬ定めとはいえ、もう現世でその謦咳(けいがい)に触れられぬと思うと、無念の極みである。

残念ながら、27日に執り行われた同社並びに雲仙観光協会、雲仙旅館ホテル組合の合同葬(石田直生葬儀委員長)には参列出来ず、通夜のみで失礼させていただいた。大正4年のお生まれだったそうなので、先般逝った我が家の祖母と同世代。改めて心よりの弔意を申し述べる次第だ。

〃雲の上の人〃だった故人とは余り面識はなかったが、記者稼業を始めて間もない頃に、取材をさせていただいた記憶がある。一言でいうと、温厚篤実を地でいくお人柄だったように思う。

そのお嬢様が島原市元市長、鐘ヶ江管一さんのご夫人、保子さん。蛇足ながら、そのご長男の秀國さんは筆者と同年同月生まれで、誕生日は1日違い。つまり、秀國さんも筆者もほぼ同時期に祖父、祖母を喪った、という訳だ。

通夜の席で、遺族を代表して挨拶に立たれたのは、ご長男で喪主の宮崎高幸さん。その中で特に印象に残った一節があるので、ご紹介させていただく。メモを取らなかったため、些か正確性を欠くかも知れないが…。

〈父の遺訓 - 。夫婦仲良くせよ。商売をしていく上でも、生きていく上でも、それが基本中の基本。商売において決して浮気はするな(信義の大切さ)。そして、従業員を可愛がりなさい〉

数少ない楽しみは、たまのゴルフとライオンズクラブの奉仕活動くらいだった、という。〈ライオンズには本当に嬉々として参加していました〉との述懐からも分かるように、「ウイ・サーブ・ウォー」の創立精神を真摯に貫いた天晴れな人生だったに違いない。

ところで、「雲仙」と言えば、日本屈指の歴史ある〃避暑地〃として知られる。通夜の日(26日)は晴天に恵まれ、それこそ平地はうだるような暑さであったが、「原生沼」を渡る風はまるで秋の到来を想わせるような爽やかさだった。

耳を澄ますと「カナ、カナ、カナ…」と、ヒグラシが乾いた鳴き声をあげていた。この点一つとってみても、クマゼミ天下の海岸域とは大違いだ。

私事に戻れば、今日で5回目の法要(三十五日)を迎え、ご住職にお経を上げていただいた。お骨は目の前にあるのだが、今頃おバアちゃんはあの世のどの辺りにいるのだろう…。

これも〃修行〃なのかどうか知らないが、最近は正座を余り苦にしなくなってきた。無心になって経文を聞いていると、なかなかに味わい深い。「時」という字を分析すれば、「日に日に寺に近づく」。なるほど、古人は上手いことを言う。合掌。