2010/10/09

10年前から第2月曜…「体育の日」前に色々思う

「体育の日」については、昭和39年に開催された「東京オリンピック」の開会式の日にちなんで「10月10日」とされていたが、祝日法の改正によって10年前から、「10月の第2月曜日」となっている。

と言うことは、どの年も曜日の並びに関係なく「連休」となるので、休み大好きの現代人にとっては、大きな「朗報」であろう。この不況下、そんな甘い考えでいいの?という意見もあろうが、この際、そんな小難しい論議はさて置く!

さて、東京オリンピックが開かれた当時の「総理大臣」は誰だったか?我々以上の世代にとってはいとも簡単な質問だが、今日日(きょうび)の若者からすれば、それはもう「現代日本史」の範疇だろう。

もったいぶる必要もないのですぐに答えを言えば、池田隼人氏である。年譜を調べてみると、明治32年生まれとなっているから、島原新聞と「同い年」だ。沢木耕太郎さんが著した『危機の宰相』(魁星出版)を読んでみると―。

実家は広島の造り酒屋。末子の一人息子として大切に育てられたが、第一高等学校(東京)への受験に2度失敗。やむなく第五高等学校(熊本)へ。その後、京都帝大法学部を経て、大正14年に大蔵省(現財務省)に入った。

と、ここまでは些か屈折した「準エリート」だが、その後の展開が何とも破天荒。入省4年後には、「落葉性天疱瘡」という奇病を患い、完全に出世コースから外れてしまう。

が、運命とは分からぬもの。途中、戦争を挟んで、先陣争いを繰り広げていたライバル連中が次々と放逐されていったのを受け、とうとう官僚最高位の「事務次官」まで昇りつめてしまうのである。

その後、政界(衆議院)に身を転じて、総理大臣になったのは昭和35年。日米安保条約の成立と引き換えに政権の座を追われた岸信介氏に代わって第58代内閣総理大臣となる。

総理としての在任期間は同年7月から五輪閉幕直後の昭和39年11月までの4年強。任期半ばで「ガン」を発病していることが判明したが、戦後20年、日本復興の集大成とも言える「大事業」を信念一筋で成し遂げたのである。

沢木さんの言葉を借りれば、「所得倍増」という卓抜したネーミングで当時の国民に夢を抱かせた「池田政権」はそもそも、総理&ブレーンともども「敗者」の集合体だった、という。

ただ、それは勝負事に敗れたという単純な意味での「敗者」などではなく、先輩格の吉田茂元宰相言うところの「グッド・ルーザー」(良き敗者)だった、と。

果たして、今の政界に「グッド・ルーザー」と呼ぶに相応しい人物がいるのだろうか?いくら考えたところで、正しい答えなど見つかるまい…。

さあ、明日は「体育の日」だ。書を閉じ、表に出よう!