2010/10/24

己の無力さを実感!!…偉大なる「山懐」に包まれ

〈ゆきはよいよい かえりはこわい♪〉ご存じ童謡『とおりゃんせ』の一節だが、山登りについても同じようなことが言える。

常識的に考えれば、「登り」より「下り」が楽に決まっている。だが、経験のある人なら良くお分かり頂けると思うが、これが意外や意外〃難物〃なのだ。「膝が笑う」のである。

下山ルートは「土小屋」(面河村)ではなく、「成就社」(西条市)を目指して進んだ。距離も短いし、正直言って「なめて掛かった」のだが、これが大間違いのコンコンチキだった。

平坦な道がまるでないのだ。行けども、行けども「階段」の連続で、膝はガクガクするし、そのうち杖を持つ手も震えてくる。「景色」も見えない。

「誰だ、このルートを選んだのは?」。怨嗟の声も上がり始めたが、「先にはロープウェイが待っていますから…」とのガイドの案内を真に受け、全員無言のままひたすら駆け下った。

途中、いたたまれずに急きょ「休憩」が提案されたのも度々。ヘビの類いを見かけなかったのが、せめてもの救いであった。

「成就社」はたまたまこの日が「祭りの日」だったらしく、紅白の横断幕が張られていた。しかし、疲れ切った身体で、とても祭事を楽しむ余裕なんかない。ひたすら「駅」を探した。が、どこにもない。

「まさか?」と思って近所のオバさんに尋ねると、「あと1キロほど下った所にある」という。もう本当に泣きたくなった。

それでも、駅まで歩かないことには、皆に置いてけぼり」にされてしまう。我慢に我慢を重ねてさらにトボトボ…。気付いた時には、「成就とはまっこと難しいぜよ」などとワケもなく龍馬口調で呟いていた。

  ※    ※

「人はなぜ山に登るのか?」。その問い対して、マロニーが「そこに山があるから」と応じたというエピソードは余りに出来過ぎの感がしないでもないが、同時に、「登山の魅力」(=人生の真実)を言い尽しているような気もする。

あれほど疲れ果てた格好で下山しながらでも、心中ひそかに「次はどの山にしようか?」などと考えてしまう。浅はかと言うか、懲りないと言うか…何とも不思議な心理状態だ。

もっと不思議でならないのは、普段は余り「挨拶」を交わすこともなさそうに見える現代人が、山道ではごく自然な形で「声」を掛け合うことが出来る。

誤解を恐れずに言うなら、「山」というとてつもなく大きな存在を前に、人々は何のテライもタメライもなく「謙虚」になれる。逆を言えば、人間は「山懐」に包まれることで、己の「無力さ」を実感できるのだ。

恐らく筆者はこれからも「山」に登り続けるだろう。なぜか?知らず知らずのうちに「謙虚さ」を失くしてしまう自分が怖いためだ。そう次も「自戒の念」を込めて…。

‐おわり‐