「地域力」について考える…恵まれ過ぎがマイナス要因!?
本日は「地域力」ということについて少し…。と言うのも、先般出席したCATV連盟九州支部主催のセミナーで、演壇に立った三人の講師すべての口から、期せずしてその種の言葉が発せられたからだ。
各講演の中身については〃大同小異〃なので敢えて詳しく紹介するまでもないが、要するに「その地域にとって、なくてはならないメディアになりなさいよ!」ということだ。
その件に関しては反論も何もない。確かにご指摘の通りだし、事業者にとっては、それが究極の「理想型」である。が、「言うは易く、行うは難し」だ。
以前にも本欄で書いた記憶があるが、筆者は我が古里でもあるこの島原半島の「地域力」を信じて疑わない者の一人である。「地力」(じりき)と読み換えてもよいか、と思う。
ところが残念ながら、現実の動きは…。それぞれ本来の「持てる力」を存分に発揮している、とは言い難いのだ。これは単純に行政上の「枠組み」だけの問題ではなかろう。
土地にはそれぞれ固有の歴史があり、そこで暮らす人々に共通した性格のようなものもある。それら全てをひっくるめた集大成が「地域力」ということになろうが、率直に言って、まだどこの街にもその「必死さ」を感じない。
そうあくせくせずとも食べる物はふんだんにあるし、湧き水や温泉もそこかしこ…。気候も温暖で暮らしやすい。誤解を恐れずに言うなら、こうした恵まれた住環境こそが地域の経済発展を阻害している「元凶」なのかも知れない。
かつて読んだ何かの本で、「本物の恋愛というのは北国でしか育めない」という一節があったが、「恋愛」を「(究極の)本物志向」と置き換えれば、何となく納得もいく。
しかし、生まれてくる子どもが親を選べないように、運命としてこの地に生まれ&育ち、或いは生活の糧を求めている人間にとっては、ここが他に取り換えようもない「人生の(最終)ステージ」なのだ。
ならば、その恵まれた条件を最大限に活かして、力の限り生き抜いていくことこそが賢者の選択ではないか…。柄にもなく偉そうなことを書いてしまったが、最近は年をとってきたせいか素直にそう思えるようになってきた。
ただ、一人ひとりの力には自ずと限界があるように、新聞やケーブルテレビ、コミュニティFMの分野でやれることは高が知れている。世の中は筆者が考えている以上に、遥かに広いし、かつ複雑怪奇な代物である。
しかし、ここで怯んではいけない。大切なのは、自分たちの古里の特性を良く知り、心を一つにして、「優しさ」と「夢」を持って邁進していくこと!
何度も言うが、島原半島には「地力」がある。為さぬは人の為さぬなりけり、なのだ。
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