2010/11/23

早過ぎる死を悼む…訓練に懐かしい顔ぶれ

普賢岳の噴火活動再開から今年で丸20年が経過したことを受け、あの「長期・大規模災害」の記憶を風化させまいと21日、噴出した膨大な量の土砂でできた「安徳海岸埋立地」をメーン会場に、大規模な防災避難訓練が行われた。

島原市が主催。県の防災ヘリのほか、県警や国土交通省、九電なども多くの資機材・人員を配備して協力した。地元住民などを含めた総参加者は約千人。弊社も国交省の依頼を受け、災害リアル情報の伝達実験に参画した。

当日の想定は、有明海を震源とするマグニチュード7.2、震度6の「大地震」に加えて、「大雨」。それらが一度に来たら「とても、とても…」といった感じだが、「基本を踏まえること」は何においても大事である。

一方で筆者自身、目の前で繰り広げられる各種訓練の様子を眺めながら、いわゆる「既視感」とは異なる、何とも形容しがたい「感慨」を抱いていた。

果たして、この20年間、一体どれほどの地域住民の方々が亡くなったのだろうか…?

自信をもって言えるのは、この災害が多くの人々の生き様(人生設計)を根本から変えてしまった、という紛れもない現実だ。人生に「イフ」はないにしても、噴火そのものが全くの〃想定外〃だったはずだろうから、尚更にそう思う。

訓練の場は、身を挺して「古里防衛」に殉じてくれた43柱のおかげで生き延びることの出来た、幸いなる者たちの邂逅(かいこう)の場でもあった。だが皆、例外なく〃老化〃が進んでいた。

そう言えば、このところ、親しい方々が次々と鬼籍入りされている。誠にもって、寂しい限りだ。

扶桑建物管理社長の岩永傳四郎さん、元島原市商工観光課長の山北好一(よしかず)さん、そして事もあろうに、現役市職員の倉本伸子(のぶこ)さんまで…。

岩永さんはよく「湯島」(天草)まで鯛釣りに連れていってくれた。「菊旅館」が常宿で、港に着くといつも〃総金歯〃のいかにも人の善さそうなオバサンが一輪車で現れた。

船上では一匹も釣れずに、前の晩の宴会に出ていた「塩焼き」をスゴスゴと持ち帰ったことも、今となっては懐かしい思い出の一つだ。

キタ(愛称)さんは市役所一番の芸達者で、宴会を盛り上げてくれる名幹事でもあった。得意技は『青い山脈』の自転車編。歌っている途中に本物の自転車まで登場してくるのだ。

また、先般亡くなった星野哲郎さん作詞の『函館の女』の替え歌、「永谷園の鮭茶漬けだよ~♪」も十八番(おはこ)だった。

シンコさん(愛称)は名うての酒豪で、冗談ばかり言って落ち着きのない筆者にとっては、ご意見番的な怖いアネゴでもあった。

噴火20年。年々歳々、人同じからず―。それぞれの早過ぎる死を悼む。合掌。