2011/02/05

災害は始まったばかり…我々に出来る事は何だろう?

共同通信社・5日付けの配信記事によれば、今回の「新燃(しんもえ)岳(だけ)」噴火に伴う土石流の発生危険箇所は、都城市、高原(たかはる)町合わせて35カ所で、時間雨量4ミリで起きる可能性があるという=国土交通省発表。

ところで、何度も繰り返して言うようだが、ことしは我々の雲仙・普賢岳の噴火災害から数えてちょうど20年目の節目の年だ。正直言って、千人が千人、いや万人が万人とも、災害当時の記憶は薄れかかっているのでは。まあ、無理からぬことではあるが…。

そこに持って来て、降って沸いたかのような、今回の噴火騒ぎ。さらには国立公園、ジオパーク等々の横の繋がり。これらをして「単なる他人事」と割り切ってしまうような冷酷非情な輩は、少なくともこの島原半島にはおるまい!

そうした観点から言えば、今回の島原市が行った「災害派遣」(職員2人)は何ともタイムリーだった。持参した降灰袋(3万1千枚)や記録冊子も大いに重宝がられたに違いない。

実は、期せずしてその派遣隊員と出会うことが出来た。場所は避難勧告のため人影が消えた高原町の「皇子(おうじ)原(ばる)公園」。変な話だが、火山灰吹き荒ぶ灰色の景色の中で、島原市の車輌を見つけた時は、何かしら胸に熱いモノを感じた。

高原町役場は2日目に訪ねた。この町は南東域で都城市と隣接しているが、「郡」の区割りでいくと北部の小林市との関係が深かった。ただ、諸般の事情で「平成の大合併」は見送られたのだ、という。

役場内は予想に反して静まり返っていた。「沢山のマスコミが押し寄せてきて…」と地元CATV局のスタッフはこぼしていたが、普賢岳の災害当時と比べたら肩透かしするくらい平穏な雰囲気だった。

ただ、それは「嵐の前の静けさ」であろう。島原&深江の場合も、被害が出てからの報道陣の騒ぎぶりは尋常ではなかった。

有難いことに、役場ご当局の計らいで、島原市からの派遣スタッフと再会することもできた。また、日高光浩町長と面会して色々とお話を伺うこともできた。

「本当に、島原市のご厚意には感謝しています。何からどう手を付けたらいいのか分からない状況の中で、貴重な経験に基づいた的確な指導をいただいて、職員一同大いに助かっています」―。言葉の端々に実直な人柄が滲み出ている感じがした。

午後11時過ぎ、「そろそろ帰らねば」と車に戻ったら、車体にはうっすらと灰が積もっていた。お世話になった現地CATVスタッフの面々に別れを告げて、いざ出発!

それからものの10分も経ったろうか…。火山灰に交じって石(いし)礫(つぶて)が一斉に降りかかってきた。そう、この災害はまだ始まったばかりだ。我々の立場で、果たして何ができるのだろうか?

-おわり-