普通であることの幸せ…人類の歴史は災害との戦い
「入学式」のシーズンであるが、不思議と自分の分は記憶に残っていない。なら「卒業式」はどうか?こちらもほとんど覚えていない。要するに、大した感興もないままに〃節目〃をすり抜けてきた、平凡な人生だ。
ただ、ガリレオの言葉を借りれば、「それでも地球は回っている」。そうすることで、我が祖国ニッポンでは、世界に冠たる「四季の美しさ」を毎年味わうことが出来るのである。
やや時節外れの「冷え込み」のおかげで、例年にも増して長らく命脈を保ってきた桜の花も、どうやら〃散り際〃を迎えたようだ。桜吹雪が眩しい。
一方で、その他の木々の〃芽ぶき〃が一斉に見られるようになってきた。「何もそこまで!?」と思うほど枝を落とされた紫陽花を筆頭に山椒、柿…などなど、それはもう見事なまでの命のデモンストレーションである。
勝手な想像ながら、東日本の被災地でも、もう何かしらの植物が瓦礫の隙間を縫うように根を付けているのかも知れない…。
「頑張って下さい!」と他人が口で言うのは容易いが、そうした自然の摂理はきっと無言の励ましとなるはずだ。否、是非そうあって欲しい。
数日前、FMしまばらの番組に出演してくださった島原広域圏組合のSさん(災害派遣隊)の言葉が印象的だった―。
「普通に生活できることの幸せを痛感。被災地では水一杯が貴重品でした」「『災害は忘れた頃にやってくる』と言いますが、最近は忘れる間もなくやってくるんですよ」
確かにそうである。数年前の中越・中越沖地震に続いて、今年1月には宮崎・鹿児島県境の新燃岳が噴いた。これまでにも幾度となく書いてきたことだが、人間は自然災害を前にしては〃無力〃に等しい。
だが、完膚なきまでに叩かれても、踏まれても、その都度雄々しく立ち上がってきたのが「人間」である。そしてその傍らにはいつも「植物」がいたはずだ。
まだ被災から一月も経っていない段階でこうした内容の文章を記すことは「KY」(空気が読めない)の典型なのかも知れないが、「悪事は吉事の前兆」という言い方もある。
長い長い戦いになるであろうが、どう被災地の皆さんには「復旧・復興への道程」を諦めないで進んでいただきたい。「KY」にしても「きっと良くなる」と読むことだって可能だ。
筆者自身、今出来ることは各方面から要請のある義援金に応じること、或いは避難施設向けに「小型ラジオ」(電池式)を送ることぐらいで、情けない気もするが、きっとこの思いは通じるはず!!
入学式も卒業式も遥か記憶の彼方だが、火砕流・土石流と阪神大震災の光景だけはこの先も忘れることはあるまい。
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