2011/04/13

大きい政治の役割…再び「心が痛む」を考える

前回は「心が痛む」という言い回しについて駄弁を弄してしまったが、つまるところは、そうした使い古された表現でもって、書き手自身が誰からも批判を受けない〃安全地帯〃へと逃げ込んでいないか、という素朴な疑問から湧いたものである。

その矛先は筆者自身へも向けている。決して、未曾有の大震災後に肉親や親族、多くの知己を失くした上に、不自由極まりない避難所暮らしを強いられている被災者のことを慮(おもんぱか)る行為(思考)自体を否定したものではない。仮に、誤解を受けるようなことがあるとすれば、極めて遺憾である。

会社そのものが被災地内にあるような新聞社や放送局は別として、多くのマスコミ関係者や、発表の場を持つ有識者の場合は、率直に言って今次災害からすれば「門外漢」。だからこそ、より冷静沈着な論評が求められる、というわけだ。

では、実情はどうか?背広を着たまま、或いは何不自由ない普通の生活を送りながら、現地から送られてくる様々な情報をもとに、「心が痛む」と紋切り口調で結ばれても…。なかなか「はい、そうです」とは言い難いですよね!?

他人の胸の内までは読み取れないが、恐らくその心中を忖度(そんたく)すればこういうことだろう→「被災者の人たちは大変だろう。しかるに、自分らはこんなに平穏無事な思いをさせてもらっている。これでいいのか?気の毒だな」云々。

災害発生から一月が経って、最近はよく「余り自粛せずにこれまで通りの生活に戻しましょう」といった呼び掛けがなされるようになってきた。それが「(経済的な)国力」を取り戻すことになり、ひいては「被災地支援」にも繋がると。

確かに、そうした側面があることも事実であろう。ただ一方で、「経済的沈滞ムードが国全体を覆っている」と焦ったところで、それはそれで仕方のないことではないのか?個人的にはそう思う。

各種報道によれば、これまでに寄せられた義援金の総額は阪神大震災当時を上回るハイペースで、1千200億円から1千300億円とも言われている。つまり、新聞やテレビ等で被災地の惨状を見るにつけ〈居ても立ってもおられない〉〈義を見てせざるは勇なきなり〉の心境になって、多くの人々(外国人も含む)から贈られたものだ。

「可処分所得」とは、ふだんは余り使わない経済用語だが、要するに多くの庶民や事業所は当面使っても生活や経営に困らない「お金」を「義援金」に回したのである。当然、そうなると、服飾や遊興、福利厚生などの諸経費は削られてしまうのが「事の道理」というものだ。

そこから先は「政治」の問題。薄く広くかける「復興税」の創設がいいのか、はたまた「国債」なのか?主導権争なんかしている場合じゃなかですバイ。きっと、「心」ある官僚の皆さんもそう思っているはずだ。