2011/04/25

災害見舞金が次々と…ご紹介が遅れてスミマセン

こんな他愛もない雑文でも楽しみに待って下さっている方もいるもので、しばし休んでいたら「すわ病気では」とのメールが家人宛に届いた。昨夜のことだ。嬉しかった!!中村雅俊さんのヒット曲ではないが、やはり「ひとはみな一人では、生きてゆけないものだから♪」…か?

実はここ1週間ほど他人に任せられない大切な案件に追われ、身動きがとれない状態が続いていた。したがって、各方面の方々に〃不義理〃を重ねてしまっていた。

まずもって謝らねばならないのは、パリー装飾の横田啓(ひろし)社長。亡父・横田豊松さん(元島原市議会議長)の香典返し(10万円)を、東日本大震災への義援金として預かっていながら、記事で紹介するのがすっかり遅れてしまって…。

勿論、寄託を受けた浄財はその日のうちに、市福祉事務所を通じて日本赤十字社に送っていただいたのだが、前述のような事情で誠にもって申し訳ない。

ところで、横田議長さんで思い出すのは、何と言っても普賢岳噴火災害時のことだ。今でこそ各地のケーブル局で市議会の生中継が当たり前のように行われているが、どこよりも早く着手したのは我がカボチャテレビなのである。

20年前の島原はまさに混乱の極にあった。何せ、市議選(開票作業、市体育館)が行われたのは「6・3大火砕流」の前夜。今でも、その時の様子だけは鮮明に覚えている。開局からちょうど1月が経って、初めて迎えた〃生中継〃による開票風景。

梅雨シーズン特有の横殴りの大雨で、中継作業の後、徹夜状態で選挙速報の紙面を組み上げ、夜明けとともに眠りこけた。そこから先の現地の惨状については、もう説明を要するまでもあるまい。来る日も来る日も「火攻め」「水攻め」の状況が続き、街には600人もの報道陣がたむろしていた。

そうした中で開かれた市議会には、幾重にもカメラの放列が並んだ。時の議長が横田豊松さんで、「時代の要請」を瞬時にご理解下さって許可をいただいた、という次第だ。

また、こういう巡り合わせも何かの〃因縁〃とでも言うのであろうか…。逝去後の通夜式が営まれたのは東日本大震災が起きた、まさにその日。啓さんはその「七七忌」(49日)の法要を期して、筆者のもとを訪ねてくれたのだった。

そしてまた今日!この記事を書いているうちに、啓さんの「不知火太鼓」の仲間である宮崎印刷の宮崎好申社長から、同趣旨の香典返し(亡父・宮崎武夫さん、5万円)を預かった。
打てば響くとは、こうした〃連鎖〃の動きを言うのだろうか、と一人ごちた。

【追伸】このほか、「花みずき会」(三宅一光会長)から3万円、「呉服の丸三」(高橋浩二社長)から展示会場での募金(4,502円)もいただきました。