山本悌一郎さん逝く…「名物男」がまた一人…
また一人、島原の「名物男」が去った。山本悌一郎さん。享年83歳。心よりご冥福を祈る。
今を遡(さかのぼ)ること25年前。結婚式当時より、個人的にも大変お世話になった「大恩人」の一人でもある。
披露宴では、ロータリークラブ仲間の菅弘賢さん(前南島原市教育長)ともども、司会の大役を引き受けて下さった。
さすがに「弁論」の出身だっただけに、水をも漏らさぬ〃名調子〃。余りの素晴らしさに、新郎の立場を忘れて、ただただ感服仕(つかまつ)っていたことを昨日の事のように覚えている。
よく〃お叱り〃も頂いた。「おい、マモル君、君はね、まだまだこの点が努力不足だぞ…」。とうとうその「期待」に応えられぬままに逝ってしまわれたことが無念でならない。
一昨年末、長年にわたって綴られた文章を一冊の本にまとめられた。昭和堂から出た『島原は眉山に抱かれて』という随筆集だ。
表紙をめくると、几帳面なペン書きで、筆者にまで「学兄」の称号を付けて下さっている。何やら面映ゆい気がするとともに、数々の〃思い出〃が浮かんでくる。
まず思い出されるのは次男の名付けの時のこと。長男の場合は岳父の専権事項だったので、「今度こそ!」との意気込みで臨んだのだが、「ダメダメ、そがん立派過ぎる文字ばっか並べたら、名前負けすっ」。
岳父&山本先輩双方から「一喝」されてしまったので、「なら!せめて読み方くらいは…」と抵抗を試みたのだが、一顧だにしてもらえなかった。
ただ、今になって本当に思う。「大層な名前ば付けんで良かった!やっぱ、人間は〃等身大〃が一番だ」と。そうした学習効果もあってか、三男の時はスンナリと決まった。
「越乃寒梅」や「呉春」をはじめ〃幻の酒〃をタラフク飲ませていただいたことも印象深い。今でこそ比較的簡単に手に入るようになったが、その当時はなかなか…。
そこで物を言ったのが「同和火災」(当時)という大手損保会社の筆頭営業マンとして全国的にも名を売っていた、山本先輩ならではの「人脈」だった。
十数年前、皇室にもつながる同社の社長さんが島原にお見えになった際には、山本さんの案内で我が家にも立ち寄って頂いたことがある。実に品の良い方であった。
最後に、山本さんを語る時、忘れてならないことは名優・森繁久彌さんとの親しい間柄。亡くなったから言うわけではないが、出来たらご存命中に紹介して欲しかった。
今ごろ山本さんは黄泉(よみ)の旅路のどの辺りだろう。先に逝った宮崎康平さんや風木雲太郎さん、吉田安弘さんらが「悌ちゃん、こっちぞ!」と手招きしているだろうか…。合掌。
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