2011/06/01

「6・3」を前に想う…あれから20年の歳月…

月が替わっていよいよ6月。陰暦で言うと「水無月」(みなづき)であるが、諸説あって、「水が無い月」と今風にストレートに解するのは間違いで、「水の月」なんだそうだ。

まあ、そんな小難しい話はさて置くとして、20年前の島原では「水無川」を舞台に大自然が大暴れした。5月中旬の土石流を皮切りに、続いて溶岩ドームが出現。そして忘れもしない「6・3」。大火砕流が43名もの尊い人命を奪い去った。

20年前の6月2日は島原市議選の投開票日で、昼間は立ち入り規制がしかれていた上木場地区一帯を巡回取材。夜には市体育館に詰めて開票作業を見守った。

横なぐりの激しい雨が降っていた。ちょうど1月前に放送を始めたばかりのカボチャテレビでは「ここぞ!」とばかりに人を配して、生中継で票の行方を追っていた。

結了時刻は午前零時をとっくに過ぎていた。その折、中継スタッフと交わした会話の内容だけは今でも鮮明に覚えている。何となれば、それが筆者にとって「命の分水嶺」だったからだ。

「選挙明けで、今日(3日)は休みじゃろもん」(スタッフ)。「うん。何かあっと?」(筆者)。「天気が回復したら、一日がかりで奥まで入って土石流感知センサーば付けに行くとばってん、一緒に行かん?」。

結果から言うと、激しい雨は明け方になっても降り止まず、筆者は消化不足の感を抱いたまま自宅に戻り深い眠りについた。そして迎えた運命の瞬間…。

「大変だ!大変だ!」の絶叫口調に叩き起こされて雨戸を開けたら、まだ夕刻前だというのに辺りはやけに暗かった。それに何やら焦げ臭い。最初のうちは火事に伴う「停電」かと勘違いしたほどだ。

心配する家族を制して「とにかく『現場』へ!」とカメラを掴んで車に飛び乗った。が、当時はケータイなど普及していない時代で、どこで何が起きているのか皆目見当も付かない。

まず向かったのは、写真仲間が観測ポイントとしていた垂木台地。誰もいない。すぐに踵(きびす)を返して市内に舞い戻り、安中地区を目指した。

市道は多くの車で渋滞。そのうちワイパーが動かなくなり、沿道住まいの人々がホースで水をかけて下さったので、やっとのことで五小の体育館(避難所)まで辿り着くことができた。それから被害の概要を確認出来るまでには、随分と時間を要した。

毎年、「6・3」が近づくたびに、あの時の「切迫した情景」を如実に思い出す。ましてや、今年は「節目」の20年だ。

振り返ってみれば、人それぞれに口では言い表せない様々な思いがあろう。筆者はたまたま生き延びることができた。火砕流に消えた43柱の「無念」に思いを馳せ、島原の「現実」と「将来」について改めて考えている。