2011/08/17

何も盆の15日に…記憶にない雨の精霊流し

今年の精霊(しょうろう)船(ぶね)はまさに「嵐の中の船出」となった。聞くところによれば、20年近く前にそれに近い「悪天候」があったというが、筆者の記憶にはない。

これは一体何なのだろう?南からの湿った大気の流れ込みによるもの、といった「科学的な解説」は一々ごもっともだが、何もこんな日に荒れなくても、というのが「庶民感情」であろう。

といった次第で、例年とはかなり異なった雰囲気の中で、平成23年のお盆は過ぎ去っていった。

明けて16日は護国寺・三十番神の夏の例大祭。筆者も「無病息災」等を願ってお参りしたのだが、いつもながらに「迫力満点」のご祈祷をいただき、身も心も清められた感じだ。

さて、これからいよいよ本格的な秋の訪れである。秋と言えば「実りのシーズン」の代名詞であるが、何せ今年は春先に列島全体を震撼とさせた「東日本大震災」に襲われた上に、さらに先月には「豪雨災害」が追い打ちをかけた。

テレビが映し出していた新潟県三条市の五十嵐(いからし)川(がわ)の堤防決壊や同十日町市の土砂崩れの様子は、いずれも以前に歩いたことのある「思い出の地」でもあっただけに、余計にショックが重なった。

今回被災を受けた東北や越後地方は、日本を代表する「米どころ」である。それが一瞬のうちに荒野(あれの)と化してしまったことを想えば、世の中の仕組みとは何と儚(はかな)いものか…。

コメという字を漢字で書けば「米」。すなわち、「苗」から「稲穂」を経て、食することの出来る「米粒」の状態に至るまでには、「八十八回」もの「手入れ」が必要とされる。

国民全体が飢えないだけの「備蓄米」が保管されているにせよ、「新米」独特の「炊き立ての旨味」は残念ながら今年は到底望めそうもあるまい。

日本は古くから「瑞穂の国」と呼ばれるほどに、コメとの繋(つな)がりが深い。要するに、一定地域に定住して「集落」をつくって、そこで生計を営む「農耕民族」である。

これに対して、欧州等の「騎馬民族」は次々と新たな獲物を目指して、各地を転戦していく。その主食は「パン」。言うなれば、「小麦の文化」である。

国や地域の成り立ち、否もっと広い意味で言えば「歴史」というものを考えてみれば、この差は大きい。「決定的な違い」と言ってもよい。

秋口の収穫を楽しみに、こつこつと種を蒔(ま)き、苗を育てて日々の農作業に汗を流す。そうしたライフスタイルこそが日本人の原点であり、その精神的支柱が各地の「鎮守の森」や「寺院」であったはずだ。

ただ、残念ながら自然の神様は人間の思い通りには動いては下さらない。降り続く雨は不遜な人間社会に対する神の怒りの現れか、はたまた災害の犠牲となった幾万柱もの御霊から漏れる慟哭(どうこく)の涙なのか…。