「沈黙は金」なのか?…何となく違う気もするけど…
「ビートたけし」こと北野武さんに、『だから私は嫌われる』という実に面白い著作(新潮文庫)があるが、人間というのは時々、分かっていながらついつい差し出がましい口をきいてしまうものだ。
さしずめ、これから書こうとしている内容もその類いだろうか…。当事者にとっては「何をこの部外者めが!」と気分を害されるかも知れないが、書くに当たって別段「他意」は持っていないのも事実である。
ただ一方で、「足を踏まれた者の痛みは、踏まれた者にしか分からない」という至言もある。信用不安に怯えるユーロを尻目に金相場は順調だとも言うし、ここは一つ「沈黙は金」で行った方が賢いか?
だいたい、連載も千回近くに及んでくると、取り上げる「テーマ」も知らない間に重なってしまうものである。例えば、この秋口の祭りシーズン…。
時候の変化を枕に字数を稼ぎ、傍観者の立場から勝手気ままなことを書き連ねる。本人にとっては、ある種カタルシスかも知れないが、書かれた(足を踏まれた)方はたまったものではないだろう。
しかし、だ。そんなことばかり気にしていたら、全ての事象について何の変哲もないスケッチ風の記事や、ヘラヘラとお追従を並べるだけに終わってしまうではないか?
そんな〈迷い〉〈逡巡〉の挙げ句に、北野さんの本のタイトルを思い出したわけで、実は昨日は「嫌われることを覚悟」の上で、2つの案件を取り上げ、自説を展開していた。
ところが、2年ほど前にも同じような辛口論評を書いていたことが判ってビックリ。その時は「事態の収拾」にかなりの労力を費やしたと、いうことだった(関係者談)。
まあ、そんなこんなで折角書き上げていた原稿ではあったが、残念ながら、昨日分は〃ボツ〃に。が、よくよく考えてみれば、書く方も書く方だが、書かれる方も書かれる方だ(お互いに成長していない)。
最も性質(たち)が悪いのは、「もっとこうあった方が望ましいでは…」との前向きな改善提案をしているのに対して、「取材拒否!」などといった強硬手段をとる、自己顕示欲に固まった頑迷な輩の集団だ。
折角涙をのんで昨日は抑えたのであるから、敢えてその団体名を明かすのは止めにするが、釈然としない思いは一夜明けた今でもどうしても払拭できないでいる。
「反論」があるなら、堂々と述べられたらよい。そうして「論議」を深めていくことで、より良き古里が出来上がるものだと思うのだが、いかんせん筆者にはその「勇気」がない。
と言うより、もう面倒くさい。〈物言えば 唇寒し 秋の空〉=芭蕉=の心境なのである。
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