「文化の日」に思う…己の教養の無さを恥じる
新聞に掲載された知事や県下各市長の動静欄を見ると、かなりの首長さんたちが「中国出張」となっている。羨ましい限りだ。
まあ、それとは直接関係ないまでも、3日は日本全国「文化の日」。長崎と上海を結ぶ新航路の開設が、政治・経済面だけに限らず、文化交流においても、新たな日中友好の懸け橋となることを切に願う次第だ。
ところで、文が化けると書いて「文化」だが、もともとこの言葉はどこから来たものだろうか?
広辞苑を引くと①文徳で民を教化すること②世の中が開けて生活が便利になること。文明開化―などといった解説が続くが、余りピンと来ない。
それよりは「文化とは土を耕すこと。すなわち農業(アグリ・カルチャー)が語源である」とする故・宮崎康平先生の御説が、本来〃農耕民族〃である日本人にはなじみやすいのではないか…。
「文明」と「文化」の違いについては、それこそ耳にタコができるほどに語り尽くされた感があるが、筆者なりに感じている〃仕分け〃の基準がある。
恥をしのんで言うと、便利、発明、機器・機械とかいった類いは総じて「文明」の分野に帰属するのではなかろうか?
一つの例えとして、最近話題となっている「スマート・メディア」について考えてみれば、端末機そのものは紛れもなく「文明の利器」である。
では、その中身はどうか?これもまた各種情報を人間が使いやすいように機能化を図っているという意味では、やはり「文明の一種」であろう。
だとすれば、「文化的な要素」というものはどこに含まれているのであろう。非常に乱暴な言い方だが、それは使う側、すなわち「人間」の問題だ。
機器に備わった便利この上ない各種ツールを駆使して、感受性や精神性を喚起するような作品を創り上げることは、「文化」に他ならない。
もっと言うなら、そうしたIT機器でなくても、万年筆は「文明」で、それを使って紡ぎ出すまとまった文章は、その巧拙に関わらず、「文化」である、と思う。
こう見てくると、「理系≒文明」「文系≒文化」といった図式が成り立ちそうだが、ことはそう単純でないところに、世の中の奥深さがある。
つまり、「文明」と「文化」の間には、深くて暗い川が横たわっているばかりでなく、目には見えない何かで秘かに繋がっている部分があるのだ。きっと!
よく「文は人なり」と言われる。けだし〃名言〃だと思う。すっきりと頭の中が整理されている人の書く文章は分かりやすくて読後感も清々しい。
その点、筆者のは…。フーテンの寅さんならきっとこう嘆くだろう。「まったく、お前さんの言うことには教養(≒文化)がないよなー」って。〃猛省〃しきりなのである。
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