2011/12/20

叔父「大往生」す!…地元医療・介護関係者に感謝

先週末から様々なトラブルに巻き込まれている。「予期せぬ事態」とでも言おうか…。まず、新聞製作の最終工程に当たる印刷システムの障害。紙面原稿を作り上げて、「いざ製版!」という段階になって、それは突如露見した。

機械に「意思」などあろうはずもないが、まるで我々の狼狽ぶりを嘲笑うかのように、「ダメ出し」の信号を送ってきた。結果、本来であれば夕刻の時間帯にはお届け出来ているはずの18日付の新聞が発行出来なかった…。当事者としてはまさに痛恨の極み。改めて深くお詫びを申し上げる次第である。

話は変わって私事で恐縮だが、長年にわたって社長とともに新聞事業の経営に携わってきた叔父が19日早朝、自宅で静かに息を引き取った。満82歳の誕生日から数えてちょうど3カ月目の「大往生」であった。

その日、いつもとは容体が異なっていたため、家族は「寝ずの番」を覚悟。居間の炬燵に横たわりながら長い夜を過ごしていた。幾度か順番で様子をうかがっていたが、明け方近くになって家人が「異変」に気付いた。直ちに筆者も立ち会ったが、すでに息絶えていた。

進行性の胃ガンを宣告されて3年余。叔父は頑なに手術を拒み、飄々とした表情で、時にタバコや酒をたしなみながら、大らかに晩節を過ごした。医学的には大いに問題あり!と言うより、論評に値しない無謀な選択であった。我々家族自体が、主治医の先生から随分とお叱りを受けたのも事実である。

が、叔父はそれこそ死ぬまで「我」を押し通した。末期の治療のため入院した病院もダダをこねて2週間で退院。「良かったね!自宅に戻れて」と笑顔で送り出して下さった看護婦さんの表情が今も忘れられない。

一方で、受け入れる側の家族は大変だったが、母も家人もそれこそ献身的な介護を、医師会から派遣されたスタッフの方々とともに続けた。それはもうある意味「戦い」でもあった。よく「戦いすんで日が暮れて…」などと言われるが、叔父が亡くなった日の朝焼けは実に美しかった。

1つの「命」が消滅したその日、目にも鮮やかなオレンジ色の太陽が東の空から顔をのぞかせた。ヘミングウェイへの小説ではないが、まさに「日はまた昇る」ではないか!

長年、叔父とともに働き続けてきた印刷システムにもそろそろガタが来ているようにも想う。人間と機械との「相関関係」など、科学的に考えればあるはずもないが、何かしらの「縁」を感じ取った1日でもあった。

今年も間もなく幕を閉じる。悪名高き「北のショーグンさま」もとうとう逝かれたそうだ。どうか来る2012年が平穏でありますように!叔父ちゃんも浄土の世界からそう願って下さい。合掌。