2012/06/15

目に余る誹謗&中傷…「発言の自由」も結構だが…

「法律上の罪人になろうとも、道徳上の罪人になることなかれ」―。筆者が大変お世話になっている某邸宅の床の間に、そんな文言の書かれた掛け軸が飾られている。確か、北村西望先生の揮毫だ。

最初のうちは「はてな?」という思いがしないでもなかったが、幾度となく通いつめているうちに段々とその「深イイ意味」が分かるような気がしてきた。

よりによって〝罪人〟などという物騒な言葉を持ち出すこと自体、不思議と言えば不思議だが、よくよく現世を眺めてみれば、何とまあ「権利意識」という感覚があらゆる局面において幅をきかせていることか!

右を向いても、左を見ても、新聞を読んでも、テレビを観ても…。「発言の自由」は国民一人ひとりに付与された固有の権利であり、法律的に言えば、何ら抵触する要素などない。

このように自由に発言できる社会はある意味、戦後の民主主義(政策、教育?)がもたらした最大の功績だと言えないこともない。が、一方で「言いっ放し」による〝弊害〟が生じてしまう恐れも同時にある。

もちろんそれは〝可能性〟の問題としての話だが、世に言う評論家やコメンテーターと呼ばれる面々を筆頭に、地域には地域のクレーマー(いちいち文句を言う人々)が必ずいて、何か事があるたびに、さも訳知り顔で過剰なまでに〝心配〟をして下さる。

その際、矢面に立たされるのはいつの世でも、予算の執行を任されている〝行政〟の関係者である。それが仕事であるから少しも気の毒だなどとは思わないが、余りもの〝暴言〟には傍で見聞きしていて義憤すら感じる。

個々の話は止めておくが、謂れなき誹謗や中傷はかえって、世の中を惑わしてしまいかねない。また、責任をもって職務に当たっている当事者のやる気までそいでしまう。

それから、これは往々にしてあることだが、そうしたクレーマー諸氏に共通しているのは、他人の言動には異常なまでに敏感な反面、自らのそれにはいたって鈍感である。

もっと言うなら、自身がプレーヤーでないから「その戦術はおかしい」「間違っている」などとスタンドから声高に叫ぶだけで、決してグラウンドやピッチには立とうとはしない。

率直なところ、そんなに言うんであれば、どうして自分で汗をかいて、或いはまた実際にリスクを背負い込んでまでやろうとしないのか。世の中なべて「言うは易し、行うは難し」だ。

最後に蛇足になるが、災害時、首都圏からやって来る取材陣に対し、筆者はいつもこうお願いしていた。「行政vs住民の対立構図で記事を構成することだけは絶対にしないで下さい」と。

振り返ってみて、皆さん例外なく良く聞いて下さった、と思う。今も必要なのは批判よりむしろ、衆知の結集なのではなかろうか?