2012/07/15

感謝の念忘れてないか…《流されゆく日々》の中で

 「サボリ癖」 とは怖いものだ。 ほんの軽い気持ちで何日間かやり過ごしているうちに〝罪悪感〟も何もなくなってしまう。

もちろん、 書かねばという!〝義務感〟めいた気持ちが無いわけではないのだが、 諸般の事情で、 ついつい〝易き〟に走ってしまった。

 『親鸞』 などの大作で今を時めく作家の五木寛之さんが一時期、「休筆宣言」を出されていたことがある。確か、その復帰の折に筆を執られたのが『かもめのジョナサン』(リチャード・バック)の翻訳本だった。

個人的により印象に残っているのは、 時を置かずして日刊ゲンダイ (大都市圏で発行されているタブロイド判夕刊紙)で連載が始まった『流されゆく日々』という随想集だ。

田舎暮らしなので、たまの上京の折くらいしか手にすることもないが、 1975年の創刊以来、 今も続いているそうだから、 ただただその〝筆力〟に驚き入るばかりだ。 何はともあれ、 タイトルそのものが素晴らしい。 改めて考えてみるが、 世の大方の人々は《流されるままに》生きているのではなかろうか?

ただ中には、「違う!」 と断言する意志強固な目標設定型人生をしっかりと歩んでいる人がいるかも知れない。しかし、どんなに肩肘張ったところで、 しょせん人間の力など高が知れている。

その証拠に、 どんなに科学技術が進歩・発展を遂げたところで、 気まぐれみたいにやって来る自然災害の前では、 まったくもって為す術を持たない。

ここ数日、 九州北部地方で相次いで発生している集中豪雨災害の成り行きを見ても、 それは明らかだ。 いかに、 コンピュータ技術を駆使した防災観測体制で臨んでも、 被害は出るべくして出てしまう。

まさに、 我々の身の回りの出来事はすべて《流されゆく日々》の集大成なのである。〝異論〟があればお聞きするにやぶさかでないが、どうにも抗いようもない〝現実〟に直面して初めて、愚かな我々は神仏などの〝他力〟の存在を意識するようになる。

筆者そのものは特段に信心深い方ではないと思うが、 同じ九州北部地方に位置していながら、 有明海を隔てただけで、 どうしてこんなにも雨の降り方が違うのだろう?

かつては諫早、 長崎で大水害が起き、 島原半島も噴火災害に見舞われた。 そして今度は、 熊本、 大分などでの集中豪雨禍だ。

よもや天は〝バランス感覚〟でもって、各種災害を振り分けられているわけではなかろうが、テレビ画面が報じているかの地の悲惨な状況を見るにつけ、複雑な思いにかられる。

思い出してほしい、 今から20年ほど前の我々の心境を。 少しの雨でも土石流の被害に怯えていたではないか。 《流されゆく日々》の中で、 本来持つべき他者への《感謝の念》がいつしか《当たり前》にすり替えられていないだろうか?