2012/08/30

死と人生について…死と人生について

最近は年齢とともに「物忘れ症」も高じてきて難しい事は考えられなくなってきている。いや、むしろ《結局のところ、人生なるようにしかならない》といった諦めの境地のようなものだろうか…。

そんな思いでいた矢先、福崎理智子さん(福栄会長)から、とある重たいテーマの原稿を頂戴した。タイトルは『八十路の下り坂』。

すでに今月26日付の紙面に掲載されているのでお読みになられた方も多いと思うが、筆者もそれをきっかけに、柄にもなく「人の死」というものについて少しだけ考えてみた。

仏教の教えでは、「生・老・病・死」は人として決して避けることの出来ない「4つの苦しみ」として取り上げられている。これまでもそう深く考えたことなどないが、言われてみたら確かにそうだ。

福崎さんは「八十」という大台に乗ったことを機に、次々と先立っていった6人の兄弟の死を悼みつつ、ご自身の「来し方・行く末」に遥かな思いを巡らされているようだ。

衒(てら)いのない文章からは、肉親や友人を亡くした「悲しみ」が率直に伝わってくるが、さらに見逃せないのは、独りだけ取り残された立場で味わう「寂寥感」のこと。

正直言って、その経験がないので上手く表現できないが、確かに人間にはそれぞれに相応しい「死に時」というものがあるような気もする。

しかし、だからと言って、天から授かった命を自ら絶つような「愚」だけは犯してならない。どんな境遇にあろうとも、寿命のある限り生き抜いていくことが、人としての最低限の「務め」であろう。

キリスト教のことはよく知らないが、その教義では「自殺」はご法度だとか。とすれば、日本国民すべてがキリスト教徒であれば、年間の自殺者が3万人を超えることなどなかろうに…?

いやいや、仏教の世界でも、人として避けられぬ「4つの苦しみ」の1つに「死」が取り上げられているわけだから、それは的外れな暴論か。

筆者もここ数年の間に、祖母&叔父と大切な家族2人を亡くしているから、異質であるとしても、福崎さんの辛い「胸の内」も分からないではない。

ただ、「死」がどういう形であれ避けられないものなら、従容(しょうよう)として受け止めるほかあるまい。もっと言うなら、残された日々をせいぜい明るく&楽しく生きていくしかない、と思っている。

最後に、長寿世界一のお爺さんとして知られた泉重千代さん(徳之島)が残したエピソードを一つ。「好みの女性は?」と聞かれて、「年上」と答えたとか。

福崎さん、お互いどう転んでも重千代爺様には勝てませんよ。せめてはユーモア最優先で、残された日々を面白おかしく過ごしていきましょうや!